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江戸幕府を倒し明治維新へと続く道を切り拓いた坂本龍馬。
龍馬とともに凶刃に倒れた同僚はもうひとりの熱き憂国の士だった。
中岡慎太郎生家
高知自動車道・南国ICより国道55号線で安芸・室戸方面へ向かい奈半利町より国道493号線を直行約70分
福山雅治が坂本龍馬を演じるNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が、正月明けからはじまった。「天地人」とは違い、子ども時代の龍馬のシーンは短く、すぐに青年時代に切り替わる。
福山龍馬が1年間続くわけだ。
とはいえ、龍馬は数えで33歳のときに、京都の近江屋で刺客に襲われ、生涯を閉じる。
ドラマでは、20歳前から33歳までの人生を追っていくことになる。

幕末の、いわゆる明治維新のきっかけとなるのは、嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖へのペリー黒船来航が契機となる。このとき龍馬は19歳。
外国船はそれ以前にもたびたび現れていたが、ペリーはアメリカ合衆国大統領の開国を迫る親書を携えて、将軍に謁見することを目的としていた。

このとき、すでに徳川幕府には外国の軍事力に対抗する力はなく、さらには、病弱か若すぎる将軍が続いて国政をリードしていける状況にはなかった。
外圧に押し切られるしかない無力な幕府に対し、天皇を担ぎ出して国を治め、異国を排斥しようとする尊皇攘夷論が台頭しはじめる。

当初、長州、薩摩は攘夷運動の主翼を担っていた。
しかし、文久3年(1863年)に起きた薩英戦争(薩摩VS英)、下関戦争(長州VS英仏蘭米)で、外国艦隊の圧倒的な海軍力を目の当たりにする。そして、単純な攘夷論では対抗できないことを悟り、武力による国内統一を優先する武力倒幕論へと変遷していくのだ。

龍馬の出身・土佐藩では、文久元年(1861年)に武市半平太(瑞山)が江戸で土佐勤王党を立ち上げていた。ドラマでは大森南朋が武市を演じている。
土佐勤王党は下級武士や農民を中心に結成された過激な尊皇攘夷グループで、27歳の坂本龍馬も9番目に名を連ねる(翌年、龍馬は意見の対立により脱藩・離脱)。
公武合体派と対立し、藩の重鎮を暗殺して土佐藩の実権を握ったあとは、朝廷と通じながら佐幕派の暗殺に関与した。

一方、脱藩した28歳の龍馬は、かつて剣術を学んだ江戸の千葉道場に身を寄せた。文久2年(1862年)、勝海舟に面会し、その場で弟子になる。
勝は長崎の海軍伝習所に学び、万延元年(1860年)に咸臨丸で太平洋を横断していた。龍馬は、神戸に海軍操練所を創設しようとする勝の手足となり尽力する。しかし、未来を見越して新政府のための海軍を創設しようとする勝は、幕府の守旧派ににらまれ、蟄居生活を送らざるを得なくなる。

勝の口利きで西郷隆盛の庇護を受けた龍馬は、薩摩藩の援助を得て、慶応元年(1865年)閏5月、長崎に武器貿易結社の亀山社中(のちの海援隊/慶応3年~)を設立する。イギリス系のグラバー商会から買いつけた武器弾薬を長州藩に転売する一方、薩摩藩の大久保利通の書簡を長州藩重鎮に届けるなど、龍馬は厚い信任を得ていた。

慶応2年(1866年)1月に長州の桂小五郎(木戸孝允)と西郷隆盛により薩長同盟が成立。慶応3年(1867年)には土佐の後藤象二郎らとともに西郷との間で、一時的ではあるが薩土盟約を結んだ。

このとき、龍馬は確実に時代の流れの中心にいた。

倒幕の路線をとる長州・薩摩に対し、土佐勤王党が粛清された土佐は、平和的に天皇親政を進めようとしていた。
龍馬はかつて勝海舟から教えられた大政奉還論を後藤象二郎らに伝え、慶応3年(1867年)10月3日、土佐藩の大名山内豊範を通じ、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
天皇に統治権を返上してしまえば、倒幕の名分が失われる。形式的にでも政権を返上すれば、新政府に移行しても徳川は実質的に政権を掌握することができるはずだ。

倒幕派にとっては、このままでは薩長を中心とした新政府を作ることができなくなってしまう。公家の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通らの倒幕派は、満15歳の明治天皇をかついで朝廷の秩序を一新するクーデターを計画した。徳川が新政府の主体となることは阻止しなければならない。
慶応3年(1868年)12月9日、朝議を終えた公家衆が退出し、薩摩など5藩の兵が包囲した京都御所において、明治天皇が「王政復古の大号令」を発令した。

これ以降、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月)に端を発する、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争に突入していくのである。

龍馬は、徳川慶喜の大政奉還と王政復古の大号令の合間の慶応3年(1867年)11月15日に、京都河原町で醤油商を営む近江屋にて暗殺される。
犯人は佐幕派の新選組とも京都見廻組ともいわれるが、いまだ定かではない。

中岡慎太郎館
所在地:高知県安芸郡北川村柏木140
TEL:0887-38-8600
入館料:500円(小中学生300円)
休館日:毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)
http://www.nakaokashintarokan.net/
近江屋で暗殺されたのは、龍馬ひとりではない。同じ座敷には、土佐の幼なじみの中岡慎太郎がいた。
中岡慎太郎は天保9年(1838年)生まれの、龍馬よりも3つ若い盟友であった。ドラマでは上川達也が演じている。
中岡はあまり広く知られてはいないが、龍馬以上の薩長同盟の功労者とする論もある。

坂本龍馬が貿易結社の海援隊を結成したのに呼応するように、中岡は慶応3年(1867年)に京都を拠点とした土佐藩の独立部隊を組織した。陸援隊と呼ばれるその軍隊は、尊皇攘夷思想を持つ脱藩浪士からなり、倒幕運動を展開した。

龍馬と同じように、中岡は24歳のとき、土佐勤王党の血盟文に17番目に署名する。
文久3年(1863年)、尊皇攘夷運動に対する大弾圧が土佐藩内でもはじまると、脱藩して長州藩内に亡命する。
政変により朝廷を追われ同地に逃げていた公家の三条実美の随臣となり、尊皇攘夷派の浪士の指導的役割を担う志士として頭角を現していく。
そして、志がありながらも無益な対立を繰り返す雄藩の現状を打破するために、薩摩と長州による協力関係の樹立を悲願として、活動を展開しはじめるのである。 

中岡慎太郎の生家は、高知駅から海沿いを東に向かい、田野町から北川村に入った山深い場所にある。
この一帯はゆずの特産地だ。
飢饉対策の一環として、ゆずを屋敷のまわりや山裾に植えるように指導したのも、大庄屋の息子である慎太郎が打ち出した振興策であったとされている。
また、北川村小島にある顕彰碑は、飢饉の際に直訴して村民救済のために官倉を開かせた慎太郎の恩に報いるため、農民たちが建てたものといわれる。

大河ドラマが、中岡慎太郎を正当に評価するきっかけになるかもしれない。 龍馬とともに戦ったもうひとりの男の軌跡を、改めてたどってみるいい機会になると思う。

写真=(財)高知県観光コンベンション協会

よさこいネット
http://www.attaka.or.jp/

モネの庭 マルモッタン
所在地:高知県安芸郡北川村野友甲1100
TEL:0887-32-1233
観覧料:700円
http://www.kjmonet.jp/
奈半利町から国道493号線を北川村に向かうと、睡蓮の美しい「モネの庭」が約5分のところにある。スイレンは4月中旬~11月初旬まで、3月中旬~4月中旬まではチューリップやアイスランドポピーが見頃を迎える。

中岡慎太郎館を過ぎ、さらに10分ほど走ると、北川村温泉がある。遠洋マグロを扱う会社が経営しており、新鮮な魚が食べられる。宿泊も可能だ。
北川村温泉 ゆずの宿
所在地:高知県安芸郡北川村小島121
TEL:0887-37-2321
日帰り入浴料:700円
泉質:含硫黄-ナトリウム-炭酸水素塩泉
http://www.kg3.jp/kt-onsen/
< PROFILE >
長尾嘉津友
雑誌や書籍、ウェブなど、活字にまつわるメディアのプロデュースを手がけるエディトリアル・ディレクター。
旅行や写真が趣味であり、仕事。最近はクルーズに注目しています。
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