東日本の人気温泉地、銀山温泉。3階、4階建ての西洋風木造建築が現存し、 いまも大正ロマンの雰囲気を色濃く残す風情のある温泉街だ。 |
12月上旬、山形はまだ雪を迎えてはいなかった。 尾花沢には多くの白鳥が飛来し、田んぼにも姿を現す。銀山温泉と尾花沢市内の中間地点にある徳良湖は白鳥が冬の風物詩となっている
稲刈りを終え、休耕期に入った田んぼには、たくさんの白鳥が飛来していた。 向かっているのは尾花沢市、銀山温泉。 山形市内から国道13号線を北上し、約2時間弱のドライブ。 銀山温泉は、銀を産出する鉱山があったことからその名がついた。 鉱山が発見されたのは、康正2年(1456年)、将軍足利義政の室町時代にさかのぼる。翌年より採掘がはじまり、約50年にわたってゴールドラッシュならぬ、シルバーラッシュに沸いた。銀山の戸数は1万6000戸にものぼったという。 領主が変わるたび、銀山は何度か復興と衰退を繰り返し、江戸時代の元禄2年(1689年)には廃山となり、採掘は明治以降、民間の手に委ねられた。 温泉地としての歴史は銀山採掘のあとにはじまる。 明治19年、内務省衛生局が編纂した『日本鑛泉誌』によれば、温泉は慶長年間(1596~1615年)に発見され、寛永年間(1624~1643年)に新しい浴場が新設されたと記されている。年間の来場者数は950人。当時でも1万人を超える温泉地が少なくないなか、交通の便の不自由さから、秘湯であったことがうかがわれる。 現在わかっている資料によると、温泉が発見されたのは慶長19年(1614年)。徳川家康が実権を握り、豊臣方との戦いとなる、大阪冬の陣が始まるころだ。 いまでは尾花沢市内からクルマで30分も走れば温泉街に着くが、明治時代には丸1日かかるほどの難路だった。 大正になると旅館は一斉に建て替えを行ない、木造3階建てや4階建ての、現在の銀山温泉の原型が出来上がる。五重塔のような特徴的な屋根をもつ、能登屋旅館の望楼の建物は、大正10年(1921年)に建てられたものだ。 能登屋の望楼。国の重要文化財にも指定されている
橋や道路も整備され、交通の便は圧倒的に改良され、銀山温泉は興隆期を迎えた。 銀山温泉を訪れると思うのは、意外なほどの町並みの小ささだ。だが、この規模が絶妙な巣籠り感、安心感を与えてくれる。 冬の雪景色も素晴らしいが、春になれば湯沢川沿いの渓流美に心が躍る。いくつかの滝を経て上がったところには、かつての銀鉱洞をめぐる散策が楽しめる。 また、温泉街の中心には、腰をおろして足湯を楽しむ「和楽足湯」があり、見知らぬ人との会話も楽しめる。 足湯「和楽足湯(わらしゆ)」は旅館と同じ源泉が引湯されている
クルマで銀山温泉を訪れたなら、ぜひ足を延ばしてほしいのが、大石田町の次年子地区。 国道13号線をはさんで、銀山温泉から西へ約1時間ほど走ると、素朴な田舎蕎麦が堪能できる“そばの里”がある。 地元の農家が民家を開放した蕎麦屋がいくつか点在しており、なかでも人気なのが「七兵衛そば」。 次年子は、あまりに雪深い山村のため、冬に子どもができても戸籍登録できるのが次の年になってしまうことからその名がついたと言われる。 しかし、「七兵衛そば」は、休日ともなると県内外からのクルマが行列を作るほどの人気店だ。 メニューは食べ放題のもりそばしかない。おとな1050円、小学生840円の明朗会計。 蕎麦猪口には大根のしぼり汁。つけ汁は、ふつうの蕎麦屋のたれよりも濃く、甘辛い。 入口で番号札を渡され、人の合間を探して長テーブルにつくと、まず漬物や大根、昆布、きくらげなどの煮物が3品出てくる。これは食べ放題のメニューに含まれている
男性はたいていひとりで3杯は食べていくというのだが、2杯も食べればお腹がいっぱいになるほどだ。 蕎麦の好みはいろいろあれど、考えつく蕎麦屋のなかでも、この店の味と量をしのぐ店はまだない。 蕎麦にうるさい山形人にも熱烈に支持されているのがよく理解できる、最強の蕎麦屋だと思っている。 七兵衛そば
所在地:山形県北村山郡大石田町次年子266 営業時間:11時~18時 定休日:第1、3木曜+盆・正月・村の行事のある日 TEL:0237-35-4098 |
銀山温泉はクルマで入ることはできず、車留めの近くではUターンに不自由する。温泉の近くに着いたら道路わきの駐車スペースに停めるしかないが、案内板もわかりにくいので注意。5月から10月の毎週土日曜日の朝には朝市が開催される。