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  3. 失われた日本初の芝グリーンのゴルフ場神奈川県横浜市/根岸森林公園
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外国人居留地となった横浜山手から南にドライブすると、起伏のある芝の広大なグラウンドが広がる根岸森林公園へと続く。じつはここはミッシング・リンクス、日本初の芝グリーンの消えたゴルフ場だった。

公園の南東側に第一、第二のふたつの駐車場がある。エントランスから桜越しに一等馬見所の建築物の上部が見える
根岸森林公園
所在地:神奈川県横浜市中区根岸台
駐車場:200台(土日祝2時間400円、以降30分100円/平日2時間300円、以降20分50円)
4月中旬にもかかわらず、東京では41年ぶりに雪が降るなど、この春は天候が大きく変動した。
桜のシーズンが長く続いたこともあり、桜の名所として知られる横浜の根岸森林公園へと足を伸ばしてみた。

港の見える丘公園で有名な、横浜山手の丘陵地をそのまま南西へクルマで7、8分走 ると、その公園に着く。
電車を利用すると、JRの根岸駅から坂道を徒歩で登って15分ほど。
現在では、東側の一部が日本中央競馬会が所有する根岸競馬記念公苑、西側は米軍施 設となっている。

ちょうどその日は、約340本のソメイヨシノが満開を迎えていた。
多くの市民の憩いの場として親しまれ、家族連れが暖かな日差しの中でお弁当を開いて花見を楽しんでいる。

しかし、私の本当の目的は桜ではなかった。

この根岸森林公園の場所に、日本では3番目、芝グリーンとしては初となるゴルフコースが明治時代に存在していたというのだ。
それを実際に見て確かめるために、ここへやってきた。

根岸森林公園のなりたちはそもそも、幕末の1866年(慶応2年)、外国人居留地内に外国人のためのレジャー施設として、日本初の恒久的な洋式競馬場が作られたことにはじまる。コースやスタンドは幕府が所有し、競馬運営団体が幕府に借地料を払うという方式で運営されていた。

一等馬見所の近くに写真や設計図などが展示されている
根岸森林公園の案内図を見ると、この公園が楕円形を描いているのがわかる。
面積は19万3102平方メートル。
現在、この公園を取り巻いている道路に沿って、その内側に幅約20mの競馬のコースがあったという。長さ約1600mの右回りコース。
そしてコースのさらに内側に、9ホールのゴルフ場があったのだ。

江戸幕府が倒れると、競馬場の運営は明治政府に移った。
1880年(明治13年)に、前身となる運営団体の横浜ジョッキー倶楽部が改称して日本レースクラブが発足する。それまでのメンバーはすべて外国人だったが、このとき日本人の入会が可能となった。メンバーには伊藤博文、松方正義、大隈重信、榎本武揚、岩崎弥之助、尾崎行雄などが名を連ねている。
このときはまだゴルフ場はなく、コースの内側の運営までは任されていなかった。

1888年(明治21年)には、勝ち馬に賭けた人に手数料や税金を引いた全賭け金を分配する「パリミューチュエル方式」を採用。徐々にクラブの財政が潤っていった。

こうした背景のなか、横浜を拠点とするイギリス人などの貿易商の間で、競馬場の内側にゴルフ場を開設する動きが起きる。

1905年(明治38年)に、日本レースクラブは、公園やレクリエーショナル施設でスポーツを行うことを名目に、所有者77名から土地を買収。スポーツを行うことを目的としてグラウンドを使用することが県から許される。
翌年の1906年(明治39年)には日本レースクラブ・ゴルフ・アソシエーションが発足。自然の地形を活かしてゴルフ場が作られ、11月22日にパー33、9ホールのゴルフ場の開場式が行われた。

コースの設計者はF.EコルチェスターとG.G.ブラディ。パー4が6つ、パー3が3つの全長2374ヤードのコースだった。

当時、日本には、日本初のゴルフコースとなる兵庫県の神戸ゴルフ倶楽部(9ホール・1903年/明治36年開場)と、横屋ゴルフ・アソシエーション(6ホール・1904年/明治37年開場)があった。だがともにサンドグリーンで、芝グリーンのゴルフ場としては、日本で初めてのコースだった。

ところが、1910年(明治43年)、「手段や方法などによる意見の食い違い」から当初の組織は解散してしまう。
以後は実行委員会を設置し、年度ごとに合議制で規則を定めるといった運営をしていくことになる。

この時期は一時的な勝馬投票券の発売禁止により、政府の補助金によって競馬が運営されていた。1915年(大正4年)には景品式の馬券を発売することでなんとか人気を取り戻そうといった機運もあった。
これに呼応するかのように、ゴルフ仲間の有志により共同馬主「コロネル・ボギー」(仮称/登録名称は「ゴルフ遊戯連中」)が所有する馬が出走している。それは1914年(大正3年)の秋から1917年(大正6年)までの4年間続いたことが記録からわかっている。
1914年にはコースの一部を縮小し、2101ヤード、パー30(3ホールのパー4、6ホールのパー3)に変更された。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により被災。競馬場自体もスタンドなど被害を受ける。

現在もこの建物の北側部分が残っており、その大きさに圧倒されるほどだ。外壁の装飾からも当時の雰囲気をしのぶことができる
その後、競馬の観覧席は復興され、一等馬見所、二等馬見所、下見所が作られる。一 等馬見所は1930年(昭和5年)に竣工。設計はアメリカ人建築家のJ.H.モーガン (1977~1937)。東京の丸ビルやホテルニューグランドの改造を手掛けた人物だ。
競技場を望む南側は大きなガラス張りになっており、エンペラーズルームと呼ばれた貴賓室の天井には鳳凰が描かれ、贅を極めた作りになっていた。

この頃にゴルフ場がどのように利用されていたのかは明らかになっていない。

1936年(昭和11年)12月、日本競馬会が設立。
翌年には日本レースクラブもこの傘下に組み入れられた。

1939年(昭和14年)、第2次世界大戦が勃発。
1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃により日本も参戦し、戦争の色が徐々に濃くなっていく。
そのような状況下では、競馬の存続もできない。1942年(昭和17年)の秋季開催を最後に横浜競馬は終了し、翌年6月10日に閉場。
この地は海軍省に接収されていった。

1945年(昭和20年)8月、終戦。
進駐軍に接収され、1947年(昭和22年)からはアメリカの管理下に置かれるようになる。
アメリカ軍のレクリエーショナル施設として、この時期にゴルフ場は復活した。現在の芝生は、この頃にもたらされたものだという。

日本に返還されるのはずいぶん時間が経ってからのことになる。
1969年(昭和44年)にスタンド以外の接収が解除。
横浜市は1972年(昭和47年)から公園の整備に着手。
そして、1977年(昭和52年)10月、根岸森林公園として一般に開放されるのである。

園内の独特の起伏はまさにゴルフ場そのもの。競馬コースの内側に9ホールがルー ティングされた
すでに、ゴルフ場はなかったが、地形は当時のゴルフ場の面影を残すものだ。
微妙な斜面のアンジュレーション、適度な起伏はゴルフをするのにうってつけだっただろう。
ルーティングについて、ゴルフ場開発時のオリジナルプランは残されている。だが実際にどのような回り方をしたのか、それは想像するしかない。
ルーティングについては、別の機会に明らかにしていこうと思っている。

一等馬見所は1982年(昭和57年)に返還され、現在もその姿が残されている。開発時の設計図など、レリーフとして展示されていて非常に興味深いものがある。

桜の季節だけでなく、ぜひ芝の美しい時期に訪れてみるといい。
そこにはブルドーザーで造成された日本のゴルフ場とはひと味違う、自然の起伏を活かしたリンクスに近いゴルフの醍醐味が眠っている。

「共同(共有)馬主コロネル・ボギーと日本レースクラブ・ゴルフ・アソシエーション」
根岸競馬記念公苑には、日本中央競馬会の外郭団体の馬事文化財団が運営する「馬の博物館」がある。学芸部主任学芸員を務める日髙嘉継氏のご協力により、日髙氏がゴルフ場についてまとめた貴重な論文を参考にさせていただいた。
< PROFILE >
長尾嘉津友
雑誌や書籍、ウェブなど、活字にまつわるメディアのプロデュースを手がけるエディトリアル・ディレクター。
旅行や写真が趣味であり、仕事。最近はクルーズに注目しています。
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