登別温泉は1日1万トンの豊富な湯量と9種類にもおよぶ泉質から“温泉のデパート”とも呼ばれる。火山活動が感じられる地獄谷には噴煙がたなびき、海外からの観光客の人気も高い。 |
登別温泉の近くには120頭余りのヒグマがいる世界一のクマ牧場もあり、こぐまの幼稚園や学者クマのショーがある
のぼりべつクマ牧場 所在地:北海道登別市登別温泉町224 TEL:0143-84-2225 料金:大人2520円、子ども1260円 札幌の雪印パーラーでアイスクリームを食べ、時計台を見て、大通公園でとうもろこしを頬張った。 いかそうめんを食べて初めていかの刺身がうまいことに気づき、ポプラ並木の近くのクラーク博士の銅像の前で同じように右手を伸ばしてポーズをとった。 もうあれから数十年の時を経ているけれども、断片的な思い出はいまでも心に残っている。 北海道にはそれから何度か足を運んだが、なかなか行くことが叶えられずにいた観光地がいくつかある。 そのひとつが、北海道随一の温泉、登別温泉だ。 登別は札幌の南西、ちょうど北海道を人の顔に見立てると、喉仏のように突き出た室蘭の岬の北東にある。 湧出量は1日1万トン。 膨大な湯量を誇る、北海道屈指の温泉地だ。 有名な温泉地として知られる登別だが、その歴史をたどると、あるひとつの宿がたどった軌跡によるところが大きいことがわかる。 北海道が日本の歴史のなかに組み込まれたのはそれほど古いことではない。 すでに江戸時代には、登別の地に温泉が湧き出ていることが広く知られていた。幕府の命で蝦夷地を探索した最上徳内(1754~1836年)が『蝦夷草子』に書き記していたように、温泉はアイヌの人々によって親しまれていた。 現在の埼玉県に生まれ、江戸の大工職人だった金蔵は、ある幕吏が函館奉行所に赴任する際にその腕を見込まれて、安政5年(1858年)に北海道に渡っている。開拓地での建物の建設が目的であった。 金蔵の妻は重い皮膚病を患っていた。登別で自噴する湯がある噂を聞いた金蔵は、山道を分け入ったところにある温泉地へ出向き、そこに小さな湯小屋を作る。温泉の効能はてきめんで、金蔵は湯守としての許可をとり、そこに湯宿を建設して温泉経営を始めるのだ。 明治23年(1890年)に初めて内湯を設け、翌年には越冬可能な施設となった。 湯治客の増加に伴い、一度に多くの観光客を運ぶための客馬車の運行が必要になる。私財を投じてけもの道を改修し、温泉へ向かう道を開拓した。明治31年(1898年)には、日帰り湯を始めるほどの人気ぶりであった。 金蔵は明治32年(1899年)に逝去。 「滝本館」という看板を掲げて跡を継いだのは息子の金之助だが、二代目を襲名してわずか3年で病死してしまう。 当時の登別温泉には、まだ小さな旅籠が数軒あるだけで、旅館を存続させなければ温泉地が途絶えてしまう。 そこで金之助の妻の濱は自らの経営を断念。当時室蘭で事業を展開し、道議会議員を務める栗林五朔(1866~1927年)に、財産と経営権を引き継ぐのだ。 事業家の栗林は交通手段の改革に着手し、大正4年(1915年)に登別温泉軌道株式会社を設立。馬車鉄道を開設する。 大正5年(1916年)の乗客数は3万5570人、5年後は12万5000人というからその事業拡張ぶりには目をみはるものがある。 その後、大正14年(1925年)には電車が開通するなど、交通機関の発達は目覚ましく、その一方で、宿の設備投資の遅れから、来場者への対応が徐々に綻びをきたすようになってきた。 昭和2年(1927年)、経営不振の「第一滝本館」の経営を任されたのは、富山出身の事業家、南外吉(1865~1939年)だった。 それまでの外吉の半生は、苦悩に満ちたものだった。 開墾した農地と家財を大洪水で失い、その後始めた空知川の回漕業は大成功を収めるものの、再び明治37年(1904年)の大洪水で全財産を失うという不運に見舞われた。 外吉は、知己のある栗林の支援を得るかたちで第一滝本館を買い取り、再起を図るのである。 従業員とともに先頭に立って働く外吉の姿は周囲に影響を与え、第一滝本館が大きく拡張していく原動力となる。 昭和14年(1939年)に75歳で生涯を終える前年には、東洋一の規模となる総面積700坪、浴槽30種、泉質11種の一大浴場を完成させた。 以降も、戦時下にあった昭和20年(1945年)には、総建坪4600坪、宿泊棟11棟、250室で最大収容人数1500人という想像を超えた興隆を極めるのだ。 マイカーブームにより、昭和49年(1974年)には登別温泉の宿泊者数が100万人を突破。 平成2年(1990年)には、客室数396室、収容人数1706名でリニューアルオープン。「温泉天国」と銘打ち、浴槽29層、泉質7種という規模を誇り、多くの観光客を迎え入れている。 登別温泉が特別な温泉地であるのは、“温泉のデパート”と呼ばれるほどの泉質と湯量の豊富さによる。 現在、観光協会で発表している泉質には以下の9種がある。 ●硫黄泉 乳白色で独特な硫黄臭。毛細血管や細動脈を拡張し、血液の循環をよくする ●食塩泉 無色透明で塩分を含む。肌に付着して汗の蒸発を防ぎ、保温効果が高い ●明礬泉 無色透明からやや黄褐色。アルミニウムと硫酸イオンを含み、目など粘膜の炎症に効く ●芒硝泉 無色透明で塩分を含む。硫酸イオンを含み、血管を拡張して血液の流れをよくする 地獄谷は温泉街から歩いて数分のところにある
無色透明でカルシウムを多く含み、鎮静、収れん効果がありり傷の湯、痛風の湯と呼ばれる ●緑礬泉 鉄や胴などの鉱物を含み、空気に触れると酸化して茶褐色になる。強酸性でよく温まる ●鉄泉 源泉は透明だが、空気に触れると酸化して茶褐色になる。リウマチ、更年期障害、貧血などに効く ●酸性泉 無色透明か微黄褐色で酸味と匂いが強い。水素イオンを含み、殺菌力が強く湿疹に効く ●重曹泉(炭酸水素塩泉) 無色透明で皮膚の角質層をやわらかくし、分泌物を乳化する作用がある。美人の湯と呼ばれる 温泉街の北側には地獄谷と呼ばれ、いまも噴煙がたなびき、硫黄臭が漂う場所がある。 ここは約11ヘクタールにもおよぶ爆裂火口の跡で、東西の直径450mのエリアの中に毎分3000リットルもの15の源泉が湧き出ている。 クッタラ湖周辺を散策するとクマゲラなどの野鳥の声が聞こえる
最大水深148m、日本で1、2を争う透明度の高さを誇り、エゾサンショウウオやザリガニが生息している。 周囲8.5km、クルマで1周20分、徒歩で1時間の散策ができる。 火山の息づく鼓動を感じられるような登別温泉。 その湯力に魅せられ、海外からの観光客も増えている。 96年には1万人に満たなかった外国人が、2008年には21万人を超えた。 圧倒的な湯量を誇る登別温泉がこれからどうなっていくのか。発展の余地はまだまだ大きく残されている。 |