日本の現代建築の礎を築いた白井晟一は、秋田県の温泉郷にいくつもの建築物を遺している。西洋と東洋の思想が融合し、自然をも取り込む白井の作品からは、現在にも通じる「癒し」が感じられる。 |
正保4年(1647)に記された『出羽一国絵図』には、川井のうち湯台村との表記がある。古くは湯ノ台(湯の岱)と称され、山間部のいたるところで湯が自然湧出していたと伝えられる。江戸時代には佐竹藩公認の休養地だった。明治29年(1896)に、初代押切永吉によって湯治宿が建立された。この一帯は白狐の住む里として知られ、信仰心の篤い押切永吉は敷地内に稲荷神社を迎え、商売繁盛の神として湯治客から参拝されていたという。のちに館名を「稲荷住む土地」という意味の「稲住温泉」と改めた。写真は内湯の「ひょうたん風呂」
稲住温泉 所在地:秋田県湯沢市秋ノ宮山居野11 TEL:0183-56-2131 泉質:単純温泉 日帰り入浴可能時間:10:00~17:00 日帰り入浴料:500円 まだ転居したばかりのオフィスは白一色で統一され、明るく清潔な印象を受けた。度肝を抜かれたのは、部屋のなかに樹木が林立していることだ。 何本もの白樺の幹と小枝が、床から天井に向かって壁を貫通したかのように配置されている。枝のところどころに過去に手がけた造園作品の写真が飾られており、センスとアイデアを垣間見ることができる。 イベントの装飾に使用した木の枝の残りを、部屋の高さに合わせて切断し、再利用しているのだ。 そこは都会のどまんなかの事務所なのだが、自然を身近に感じられる工夫に感心してしまった。 事務所は飯倉交差点の角にある。 ドアを出ると、円筒形の不思議な建物が否応にも目に入った。 この付近をクルマで走っていると、この建物が飯倉交差点のランドマークとなる。それほど印象が強いのだ。 上層部は硫酸銅仕上げの楕円筒形で、窓はほとんどない。 下層部は赤レンガが積み上げられ、まるで墓標のようでもある。 これは建築家・白井晟一(1905~1983)の設計によって、昭和49年(1974)に竣工したオフィスビルだ。 白井は、京都高等工芸学校図案科(現在の京都工芸繊維大学造形科学)を卒業後、ベルリン大学で哲学を修め、帰国後の昭和10年ごろから建築設計をはじめた。 モダニズム建築が主流となる当時の建築界にあって、光の陰影や独特な素材の使い方で一線を画した建築家だ。 有名な代表作品には、佐世保市にある親和銀行本店コンピュータ棟や渋谷区立松濤美術館などが挙げられる。 白井晟一の建築物を目の前にして、ふと、数年前に滞在した秋田県の宿、稲住温泉のことを思い出した。 それは見事な山荘だった。 旅館の母屋とは別の、離れの一室に案内された。 茶室、寝室、居間、浴室を備えた数寄屋造りで、「離れの山荘」という呼び方にふさわしい住宅だった。 角部屋になった居間の、床から天井近くまである大きな障子を開け放つと、そこには一面の蓮池が広がっていた。 障子と木製サッシのガラス窓は対になっており、角の柱を中心として左右に開閉できるようになっている。 足元には木製の草履が揃えられており、蓮池に面したウッドデッキへと出ていくことができる。 デッキチェアに腰を下ろし、風を感じていると、このまま何もせずに時の移ろいに身を任せているのが次第に心地よくなってきた。 宿というよりも、自然の景観を借景として堪能するために建てられた別邸。高貴な友人が建てた、自然の中の一軒家へといざなわれている感覚を味わうことができた。 この純和風の建築も白井晟一の手によるものだ。 蓮池方向から離れを振り返る。ウッドテラスのあるバルコニーは西洋建築だが、室内は純然たる和風テイストが生きている
「離れの山荘」は蓮池を望むように建築されている
当時ですら竣工からすでに約40年が経過しているわけで、たしかに木製の敷居やウッドデッキの一部は老朽化している部分があった。 しかし建築全体から受けた印象は、むしろ現在の住宅の主流となっているシンプルモダンに近い。 栗駒国定公園内にあり、3万5000平方メートルの敷地面積をもつという稲住温泉とその周辺は、白井が遺した作品がいくつも点在している。 「浮雲」と名づけられた二階建ての白亜の欧風建築は、昭和28年(1953)の作品になる。 外壁は漆喰で、2階は54畳の純和風広間、一階は栗材をふんだんに用いた洋間。 さらに、同じ敷地内にある友誼館、別名「愛ちゃん卓球場」は、白井の設計した旧秋の宮村役場(1951年築)の外観をそのまま残して移築したものだ。 福原愛のホームグラウンド(練習場)として卓球場に改装され、合宿期間中でなければ見学や卓球を楽しむことができる。 建築を専攻する学生が、いまでもその作品群に触れるためにツアーを組んでこの地を訪れるのも納得できるというものだ。 「……最も印象強き月日をここに送りたり、思い出多き懐かしき土地なり」 武者小路実篤(昭和41年春 直筆の書より) 実篤は昭和20年(1945)4月から妻、二女、初孫の4人で疎開し、8月25日の終戦をここで迎え、帰京する9月まで滞在していた。 実篤がこの宿を訪れたのはこのときだけではないのだが、疎開していた時期を回想して上記の言葉を遺している。 空襲を逃れて訪れた東北の地は、自然と人間とのつながりを改めて想起させ、心の平穏を保つのにどれほど貢献していたことだろう。 温泉の効能はもちろんだが、住空間がもたらす癒しについても目を向けなければならない。 白井晟一の建築は、約50年を経たいまでも、温泉のように深く体に染みてくる。 |
東北自動車道・古川ICより国道47号線経由、鳴子より国道108号線で約80分。秋田自動車道なら横手方面から湯沢横手道路を経て南下するというルートもある。山形新幹線を利用するならば終点の新庄を、また秋田新幹線ならば盛岡を経由し大曲が基点となる。