箱根の塔ノ沢温泉に皇女和宮がその生涯を閉じた風光明媚な宿がある。湯治に効く源泉の心地よさと、大正時代の宮大工が粋を極めた名建築に圧倒されるばかりだ。 |
大正時代から残るステンドグラスとモザイクタイルの大浴場
早川を望む露天風呂「翠雲の湯」。22時~翌4時まで貸し切り可能だ
木造三階建て、四階建ての建築の隅々にまで趣向が凝らされている
大広間「神代閣」。神代杉や桜、桐など数種類の銘木を多用。仙田菱畝の花鳥図の襖絵が見事だ
舞台つきの大広間「万象閣」。壮大な折上天井に目をみはる
ひと口に箱根の温泉といっても、その数は二十湯にもおよぶ。 かつては「箱根七湯」と呼ばれていた時代があった。 一番早くから開湯した湯本にはじまり、塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の温泉地を指す。 現在、箱根町の観光協会では、「箱根十七湯」というくくりで観光案内を行っている。 加えられたのは、姥子、大平台、小涌谷、二ノ平、強羅、宮城野、仙石原、湯ノ花沢、芦ノ湖、蛸川の十湯。 さらに大涌谷、湖尻、早雲山の三湯を加えれば二十湯となる。 このなかで、今回は「塔ノ沢温泉」にある環翠楼を取り上げてみたい。 正月の「箱根駅伝」では、小田原から箱根湯本の駅に至り、そこから“天下の険”5区の急斜面の登りに入る。あの東洋大学の柏原竜二が走った、見せ場の入口だ。 右手には箱根外輪山の塔ノ峰、左手に湯坂山に挟まれた東海道を上がってゆくのが駅伝のルートになる。そのまま進めば、千石原を経て御殿場へと抜けていく。 一方、箱根湯本からは西へ向かうもう1本のルートがある。 箱根山の南側を迂回して、芦ノ湖の南にある箱根峠を通過、三島、沼津へと向かう箱根新道だ。 塔ノ沢温泉は箱根湯本駅から東海道を上がってわずか1km。まさに5区の山道がはじまり、湯本の喧騒を避けるにはもってこいの場所にある。 『日本鉱泉誌』によると、塔ノ沢温泉の発見は慶長3年(1598)になる。 豊臣秀吉が後見人に徳川家康を指名し、伏見城でその生涯を終えた年だ。 記述には「慶長三年戊戌ノ頃塔ヶ峯阿弥陀寺開基ノ僧單誓之ヲ発見スルト云フ」とある。 阿弥陀寺は、塔ノ沢から塔ノ峰に向かって急な山道を20分ほど登ったところにある山寺だ。 木食の遊行僧「弾誓」は、慶長9年(1604)から6年間、塔ノ峰にあった洞窟で修行を行い、ここに阿弥陀寺を開いた。 興味深いのは、洞窟で一心に念仏を唱えた弾誓が、夕暮れの紫雲たなびく山中で、光る土の中から五層の舎利塔を発見したという説話が残っていることだ。 インドの阿育王(アショーカ王・紀元前3世紀/インドを統一して仏教を保護し た)は仏舎利を納めるため、8万4000の宝塔をつくったという。そのうち、日本では3 カ所に伝えられ、そのひとつであると語り継がれているのだ。」 のちに本堂横手の山中に石塔がつくられると、舎利塔はその中に納められた。この石塔の「阿育王塔」という名にちなんで、阿弥陀寺の山号は阿育王山と呼ばれている。 阿弥陀堂の本尊は阿弥陀三尊だが、祀られているのはそればかりではない。 じつはこの寺には、幕末の悲劇の皇女、和宮(1846~1877)の位牌が祀られているのだ。 和宮は明治10年(1877)9月に、数えで32歳という若さで亡くなった。 孝明天皇の異母妹である和宮は、皇女が武家に降嫁した唯一の例となる。 尊王攘夷の空気が強まる時代に、公武合体運動の策略の一貫として、和宮は14代将軍家茂に嫁がされる運命となった。 だが、明治維新の変革期のなかで、わずか3年後には夫と死別。 同じ年に母と兄である孝明天皇を失い、失意のなかで明治という新しい時代を迎えることになったのだ。 明治7年(1874)に京都から東京に戻った和宮は、その頃から脚気を患うようになった。 明治10年8月、療養先のため塔ノ沢温泉の環翠楼に逗留していたが、和宮は月が変わってすぐにこの世を去った。 阿弥陀寺は芝・増上寺の修行寺であり、増上寺は徳川家である和宮の菩提寺で当たる。そこで本葬に先立ち、阿弥陀寺で通夜と密葬が執り行われた。 その後、阿弥陀寺は増上寺の永久別院となっている。 このように、環翠楼には古くから、歴史にまつわる多くの伝承が残されている。 環翠楼の歴史をたどれば、湯治場として開湯したのは慶長19年(1614)。 当時は、長期滞在しか認められておらず、1泊での湯治は禁止されていたとある。 一夜湯治が認められるのは文化2年(1805)になってからだというから、それまでずいぶん時間がかかったことになる。 明治10年(1877)、初代鈴木善左衛門が創業。 塔ノ沢温泉を訪れる客は、明治14年から16年の平均で、年間1万8677人。同時期 の箱根湯本は2万1600人(ともに『日本鉱泉誌』より)。 他の温泉地と比較してみても、箱根は地の利のよさから人気の温泉地だったことをう かがい知ることができる。 現在の環翠楼は木造四階建ての見事なものだが、北棟、南棟、別棟ともに、大正期になってからの建築による。 山の地中や湖中に眠っていた樹齢数百年以上の神代杉やケヤキの銘木をふんだんに使用。 館内を手がけたのは宮大工による。 それも、何十人もの大工を雇い続け、宮大工が引退するまでここに住み込ませていたというから恐れ入る。 ひと部屋ごとに使用材木や彫刻で趣向を変え、施主や棟梁の遊び心が込められている。 とくに天井がすごい。 大広間「神代閣」の側面のアーチに驚き、「万象閣」の折上天井はこれまでみたことがない。 館内の所々に飾ってある置物やアンティークの品々の、ひとつひとつにも壮大なストーリーがありそうで、館内を歩くだけでも好奇心がそそられてしまう。 館内にはレトロなモザイクタイルを使用した内湯のほか、貸切専用風呂がふたつと、早川のせせらぎを楽しむことができる露天風呂がふたつある。 いずれもすべて、源泉かけ流しだ。 このほか、岩盤浴のヒーリングストーンスパも登場した。 早川を望む露天風呂に入ると、伊藤博文が感嘆した緑の美しさは、このような光景だったのかと、いまでも追体験することができる。 宿の名付け親である博文だけでなく、多くの文人墨客が宿の歴史とともにある。 温泉旅行では、いつも自然や風土に目を向けてしまいがちだが、こういった建築や文化をのものを温泉とともに楽しむのも悪くないと思う。 |
< PROFILE >
長津佳祐
観光やレジャー、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。ブログ「デュアルライフプレス」
http://blog.duallifepress.com/もよろしく。
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