この連載には神社やお寺が多く登場します。しかし、自然が作り出した場所や人間が築き上げた人工物に計り知れないパワーを感じることがあります。熊本県内に点在する石工の作品である石橋などもそのひとつです。
「夏休みのあいだに何か1冊の本を選んで、感想文を書いてきなさい」と、7月の暑い空気が充満している教室の教壇に立った担当教諭が言いました。
多くの友人はキュリー夫人やベーブルース、野口英世といった偉人の伝記を選びました。
しかし、わたしが選んだ1冊は日本児童文学者協会賞に選ばれたと「帯」に描かれた『肥後の石工』という今西祐行さんが書いた本でした。
主人公は江戸時代後期に実在した肥後の石工・岩永三五郎です。
肥後で石工をしていましたが、その実績を認められて薩摩藩に招聘され、薩摩藩内の甲突川に五大石橋を築きます。
しかし、石橋には大きな秘密がありました。三五郎が架けた橋は、薩摩藩の命によって要になる石を外せば崩落するような仕掛けがあったのです。
薩摩藩のために橋を架けた三五郎ではありますが、薩摩藩からすれば「特別な秘密」を知る危険な人物でもあります。三五郎を肥後の国に返すつもりはありませんでした。
それでも、帰国しようとする三五郎は帰路の途中に薩摩の刺客に襲われます。
三五郎を襲ったひとりが徳之島から来た刺客でした。しかし、三五郎の人となりを知るうちに、刺客命令に疑問を感じます。結果、浮浪者を身代わりにして薩摩に戻っていきます。
三五郎は浮浪者の遺児を肥後に連れて帰りますが、「親の仇」として逆に恨まれてしまいます。
肥後の石工の技と、それゆえに生じた複雑な人間模様。児童文学のジャンルではありますが、その壮大なスケール感に、小さなわたしはずいぶん圧倒されたものでした。
熊本県は石で造られたいわゆる「眼鏡橋」がたくさん残る地域です。その秘密は「種山石工」という技術者集団が江戸末期に肥後にいたからです。
その代表ともいえる人物こそが、『肥後の石工』の主人公でもある岩永三五郎でした。
ところで、肥後の石工たちが石橋造りの一流職人になるには、ひとりの武士の存在がありました。
長崎奉公所に勤めていた藤原林七は、長崎町内に架かる「眼鏡橋」の構造が円周率に関わる異国の技術であるのを知ります。そして、その技法を自ら調べました。
異国の技法を知った(盗んだ)林七は当然のように役人に追われ、なんとか肥後に逃げ帰りました。もちろん、学んだ技法を無駄にはしません。
当時の肥後国は八代の海の干拓事業が盛んで、岸壁を築いていたのが八代郡種山村出身の石工たちでした。
林七はその石工たちに石橋架設の技術を伝え、それが種山石工誕生の契機になりました。
その後、肥後の国では石工たちによる架橋が盛んになります。
三五郎の名を有名にしたのは25歳のときに架橋した雄亀滝橋でした。強度のあるこの橋は今も残り、日本初の水路橋として知られています。
それ以外にも熊本県八代市鏡に残る鑑内橋、上益城郡山都町の聖橋を作り、藩から「岩永」の姓を授かるまでになりました。そして、その名は藩を越えて伝わり、薩摩藩からの招聘に至るわけです。
熊本を取材で歩くと、みごとな石橋を見かけます。それらは三五郎をはじめとする種山石工に端を発していますが、雄大な石橋にはエジプトのピラミッドを見るときと同じようなパワーが感じられます。
石を積み上げることによって作る巨大で頑丈な石橋。それらが江戸時代に完成したと思うと底知れぬ人間のパワーを感じるのです。
「霊台橋(れいたいきょう)」は熊本県下益城郡美里町にあります。
1847年に石工によって完成した橋ですが、橋長90mの立派なものです。諸説あるものの、これだけの橋をわずか7か月で完成させたと伝わるのですから、肥後の石工の技術力には恐れ入ります。
しかし、わたしがもっとも驚き、圧倒されたのは「通潤橋(つうじゅんきょう)」でした。
水不足に困っていた農民や住民を救うために、庄屋・布田保之助が依頼、1854年に肥後の石工の技術を用いて建設した石造りのアーチ水路橋です。
長さは約76m、高さ20m。橋の上部にはサイフォンの原理を用いた3本の通水管が設置されており、現在でも周辺の田畑に水を供給しています。
また、通水管を清潔に保つために設けられた放水装置は、現在では観光客を喜ばせています。
この通潤橋のモデルになったのが、三五郎が造った雄亀滝橋なのです。
さて、熊本とその周辺を散策してみると、石工たちの腕があちらこちらで見てとれます。
そのひとつは熊本城の城壁です。完成が1606年ですから肥後の石工が活躍するずいぶん前の話となりますが、加藤清正が連れてきた近江国の石工による「武者返しの石垣」は、上部に向かうほど傾斜が急になっています。
敵の武者の侵攻を防ぐことからこの名がつきました。この技術も肥後の石工たちに受け継がれたのでしょう。
さらに、お隣の大分県玖珠郡には「川底温泉」があります。開湯901年の歴史ある温泉ですが、現在残る湯船は1856年に石工を呼んで造らせた重厚なものです。
当時は肥後の石工の全盛期でもあります。湯底から湯が湧き出るぶくぶく自噴泉の名湯の湯船も、肥後の石工の作かもしれません。
※写真の一部を長崎県、熊本県のフォトライブラリーよりお借りしています。
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。