能登半島最先端にあるよしが浦温泉では、サンクチュアリ(聖域)と呼ぶにふさわしい、神秘的な景観が随所に見られる。かつては船でしか行くことのできなかったランプの宿は、そこに行くことが目的になるような、不思議な温泉地だった。
ランプの宿全景。小さな入り江になっていて、波は意外なほど穏やか
プール中央にある貸切風呂「波の湯」。2階は展望台になっている
男性露天風呂。海にせり出していて眺めは最高
プールサイドにあるランプが印象的なカフェ&バー
青の洞窟へはトンネルを抜けて行くこともできる
しばらく前のこと。
書店でなにげなく手に取った北陸の旅行ガイドブックを見ていたら、その宿の記事があった。
能登半島最先端にある、ランプの宿。
宿周辺の一帯は「聖域の岬」と呼ばれ、洞窟もあるという。
わざわざ行かなければならない場所というだけで旅する理由には十分だ。
このときは記憶に留め、これ以上調べずに放っておくことにした。
もし縁があるのならば、行く機会は絶対にあるものだ。
この夏、ふとしたきっかけで、北陸を旅することになった。
下準備のために雑誌をパラパラめくっていると、再びこの宿に出くわした。
突然の出発だったので、宿泊状況をホームページで確認すると、すでに2カ月先までは満室の状況。
ダメ元で直前キャンセルがないか電話してみると、8月末に空きがあることがわかった。
スケジュールも空いている。
これは行くしかない。即決で予約を取ることにした。
北陸新幹線・新高岡駅でレンタカーを借りて、能登半島の先端をめざす。
新高岡からは約150㎞の道程となる。
能登半島の高速道路は能越自動車道が建設中で、現在は七尾ICまでが開通している。高尾ICからは無料区間なので、今回、高速料金は不要だ。
将来は能越道は輪島まで延伸する予定になっている。それでも最先端まではまだまだ遠い。
当日は台風の接近によるあいにくの雨模様。
いったん氷見まで北上し、海の幸を味わってから能越道に入った。
七尾ICからは内陸へと入り、のと里山海道の徳田大津ICをめざす。これは高速道ではないのだが、能登半島を貫通する自動車専用道路になっている。
さらに能登空港ICからは珠洲道路(のとスターライン)へ。穴水と珠洲を結ぶ最短ルートだ。
車窓から見える風景は緑の濃い丘陵地で、自然がありのままに残されているような原野も広がっている。
時折、山の谷間に水田と集落が見えた。
海に近く、里山の作物も収穫できる豊かな土地。
私にはだんだん能登が自然に恵まれた住みやすそうな場所に見えてきた。
珠洲市まで来て、ようやく海が近くなってきた。
できるだけ海に近い道を選んで走っていくと、2日後に予定されているトライアスロン大会ののぼり旗が飾りつけられていた。
この生活道路は交通量も少なく、大会ではサイクリングルートになるらしい。
道沿いの建物は独特で、瓦の切妻屋根に黒い木壁。豪農の立派な屋敷は浜屋造りと呼ばれる伝統的な建築スタイルのようだが、もっとシンプルで簡素な、木造建築の住宅が続く。
時代に取り残されるように存在してきたのだろうか。
近年はその価値を認め、保存する風潮にあるから、自治体でも新築規制を設けて保存する方向に動いているのかもしれない。
さて、いよいよ最先端が間近となってきた。
須須神社の手前あたりで、ふとしたことに気がついた。
海岸線が道路からとても近いのだ。
道路から海岸線の間には堤防のような障壁がなく、砂浜まで地続きになっているような場所もあった。
翌日走ることになる奥能登の海岸線はどこも似たようなもので、海がとても身近にあった。
きっと波が穏やかなせいなのだろう。
昨今、地震津波の影響から、背の高い堤防を築いて生活を守ろうとする動きがある。
東北太平洋側の海岸は、東日本大震災以降、大きく長い堤防が築かれてしまった。
能登に住む人々はどのようにして津波に対処してきたのか。
古い木造の建物を見る限り、ここは波が静かで穏やかな日々が長い間続いてきたように思える。
なんのことはないのだが、これまで見たことがありそうでなかった風景に、しばし心を奪われた。
さて、海沿いの道をさらに進むと、よしが浦温泉に到着した。
そこは売店を併設した自然環境保護センターがあり、広い駐車場になっていた。
係員に自分の名前を告げると、ランプの宿までは、送迎車に乗り換えて行くのだという。
聖域の岬に入るには入場券が必要で、宿泊者は車でゲートのなかに入っていくことになる。
崖の下、入り江に沿うように、ランプの宿はあった。
海辺ぎりぎりの立地に、黒瓦に黒壁の二階建ての離れが4軒連なっている。
その奥にはエントランスと母屋。海側にはプールも設けられている。
建物はあくまで和風だが、宿は外国人にも受け入れられそうなアジアンリゾートの雰囲気を醸し出している。
パンフレットにある“サンクチュアリ・リゾート”という言葉がぴったりはまっていた。
この「聖域の岬」の敷地面積は約15ヘクタールあり、すべて宿が所有・管理する土地になっている。東京ドームだと約3.2個分に相当する。
かつては宿へは船で通うしかなかったというから、いかに隔絶した土地であったかがわかる。
この地には青の洞窟や、「スカイバード」と呼ばれる飛び込み台のような空中展望台、プライベートビーチなどがあり、すべてを体験しようと思うと1泊では物足りないかもしれない。
「今日は台風のせいで波が高くなっていますが、いつもは凪いでいて静かな湾になっているんですよ」
仲居さんの説明のとおり、窓の外の磯には波が激しくたたきつけるように押し寄せていた。
だがそこは、まさに絶景の秘湯。
部屋にはテレビもなく、聞こえてくるのは波の音だけ。
思索や瞑想をするのに、これほど最適の場所はないかもしれない。
翌日には雲の合間から青空が広がり、美しい光景が目の前に広がった。
海に面した100mプールの中央には貸切露天「波の湯」があり、竜宮城のようなイメージが漂っている。
湯につかって窓を左右に大きく開け放つと、水面に近い高さで海が目の前に迫り、海外のリゾートにいるかのよう。
能登にいるという現実を忘れ、不思議な感覚に陥った。
宿の成り立ちについて、宿の主人、刀祢秀一さんに話をうかがった。
この宿が開業したのは約440年前の天正4年(1576)のこと。
秀一さんは温泉宿の主人としては14代目、廻船業を営んできた刀祢家としては22代目に当たる。
刀祢家は琵琶湖を行き交う船の航行権を握っていた刀祢水軍の末裔で、平氏政権の中心にいた平時忠(1130-1189)が壇ノ浦の戦いで源氏の捕虜になり、能登国へ配流される際に、ともにやってきたと考えられている。
刀祢家と平時忠との関係については、吉川英治が著した『新・平家物語』にも描かれている。吉川は実際にこの宿を訪れ、執筆の参考にしたという。
さて、廻船業を営む刀祢家が、なぜ湯宿を営業するようになったのか。
それには葭ヶ浦に湧く不思議な石清水の存在があった。
この地域に住む漁師が、あるとき飛べなくなった鳥が葭ヶ浦の湧水につかっているのを見つけた。
“この湧水は傷を癒す効果があるのだろうか”
漁師は石清水を持ち帰って試してみると。オコゼやマムシの毒にやられた際に、解毒してくれる効果があることがわかった。
このあたりには病院はなく、皮膚のかぶれや痛みに効くと評判になったことから、この鉱泉を溜めて利用することになったのだという。
その効用を示すかのようなエピソードがある。
2002年、母屋から一升瓶に入った湧水が発見された。
これは秀一さんの大祖父の理一さんが1889年(明治22年)6月に水質確認のために採取したもので、ミネラル分の沈殿物が見られるものの、全体には透明で濁りがなかった。
そこで保健所に水質検査を依頼した結果、不純物や細菌が検出されず、飲用可能であることが判明したというのだ。
また、1969年(昭和44年)に採取した水と比較したところ、113年前のほうがより浄化されていることも確認された。
これは「113年間腐らなかった水」として、2002年7月の北陸中日新聞に掲載されている。
2005年(平成17年)調査の温泉分析書によれば、この自噴源泉は塩味のある無色透明、無臭で、ナトリウムイオンと塩化物イオンの数値が高くなっていることがわかる。
典型的な食塩泉で、このほかマグネシウムやカルシウム、カリウムなども含まれている。
1㎏当たりの成分総計は3.347gで、海水のほぼ10分の1の塩分濃度だ。
殺菌性の高い水の純度は、塩分濃度の高さのせいではなかった。
この源泉にはやはり、不思議な力が宿っているのかもしれない。
泉温が低いため、温泉としては循環・加温して利用せざるを得ない。
それでもこの源泉そのものは、驚くほどピュアな純水であるという事実に変わりはない。
奇跡のような景観と源泉。
そこはまさに聖域と呼ぶにふさわしい、神秘的な温泉地だった。
北陸新幹線・新高岡駅からランプの宿までは能越自動車道→のと里山海道→珠洲道路(のとスターライン)を経由して約151㎞、2時間40分。金沢駅からは西海岸沿いののと里山海道→珠洲道路経由で約150㎞、2時間30分。ランプの宿から輪島市内までは、白米千枚田を経由する県道28号線→国道249号線で約50㎞、1時間。輪島市内から新高岡駅までは112㎞、2時間。金沢駅までは111㎞、1時間40分。途中、休憩や観光などを挟むことを考えると、少なくとも倍の時間は必要とみて、ゆったりと行程を組みたい。
< PROFILE >
長津佳祐
ゴルフや温泉、クルーズ、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。山と溪谷社より共著で『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』を上梓。北海道から九州まで自噴泉の湯船を撮り下ろしで取材した、斬新な切り口の温泉本になっている。
長津佳祐
ゴルフや温泉、クルーズ、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。山と溪谷社より共著で『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』を上梓。北海道から九州まで自噴泉の湯船を撮り下ろしで取材した、斬新な切り口の温泉本になっている。