島根県宍道湖の南側に位置する玉造温泉は、奈良時代の養老年間に開湯したといわれる古湯だ。この地は出雲王朝を造ったスクナヒコナが発見した温泉としても知られており、この国の成り立ちにも深くかかわっている。 |
須我神社
所在地:島根県雲南市大東町須賀260 TEL:0854-43-2906 日本初之宮である「?賀の宮」造営の際、そこから雲が立ち上り、スサノオが詠んだとされる和歌の碑文が須我神社にある。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 奥宮にある岩座(いわくら)、通称「夫婦岩」。最も大きいのがスサノオ、左手が妻クシナダヒメ、手前の小さい岩が息子ヤジマジヌミといわれる
テーマは日本の古代史。 現在の天皇家とは異なる、もうひとつの王家の存在に迫った『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)をテキストにしよう。 著者は梅原猛。 哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。 この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。 梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。 しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。 出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。 ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。 もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。 第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。 梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。 梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。 というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。 この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。 記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。 悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。 この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。 スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。 この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。 出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。 この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15㎞ほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。 八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227 TEL:0852-21-1148 奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。 ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。 梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。 そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。 八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。 この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。 素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。 当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。 兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。 嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。 しかし、八十神の迫害は止まらない。 身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。 それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。 黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。 スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。 そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。 愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。 スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。 黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。 八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。 ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。 正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。 熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451 TEL:0852-54-0087 古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。 ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。 ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。 オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。 ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。 越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。 その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。 このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。 しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。 関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。 ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。 梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。 「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。 『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。 ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。 オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。 その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。 玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323 泉質:ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉) 源泉:69.7度 pH:8.1 TEL:0120-62-0171 120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。 玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。 『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。 「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。 『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。 温泉の発見は養老年間(717-724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。 義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。 温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601-1666)が浴場を修補する、と記述されている。 さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。 この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。 王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。 国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。 出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。 ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。 その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。 たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。 神代と現代とをつなぐひとつのきっかけが温泉にあるのだとしたら、それはとても幸せな結びつきではないかと、改めて思う。 |
< PROFILE >
長津佳祐
観光やレジャー、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。ブログ「デュアルライフプレス」
http://blog.duallifepress.com/もよろしく。
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