2016年、日本に新たな「世界遺産」が誕生する可能性が高いのをご存知ですか? 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がその候補です。長崎を旅するとき、さまざまな場所でキリスト教会を目にします。それは長い歴史の後の人々の想いの結晶でもあるのです。
潜伏していた教徒たちが決死の覚悟で訪ねた大浦天主堂。現在では長崎の観光名所でもある
隠し信仰部屋の様子を再現(天草ロザリオ館取材時に撮影)
かつてこの連載でも「信仰の厚さを感じさせる特別な地」と題し、熊本県の天草地方を取り上げたことがあります。
(http://www.smart-acs.com/magazine/12040101/experience001.php)
わたし自身、天草や長崎県の長崎、平戸、島原半島を数回旅していますが、そこで数々のキリスト教徒たちの“苦悩”を目の当たりにしました。
フランシスコ・ザビエルが長崎の平戸で布教活動を開始したのは1550年のことです。その後、1584年には「天正遣欧使節」がローマを訪れるなど、キリスト教は着実に日本に根付くかと思われました。
しかし、1597年に宣教師と教徒の殉教があり、1614年には全国に禁教令が発令されました。さらに、1622年にキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された「元和の大殉教」を経て、いよいよキリスト教への弾圧は強まります。
1629年にはキリスト教徒の発見のために幕府は「踏み絵」を用いています。踏み絵を踏めなかった教徒たちは次々に処刑され、その数は20万人とも30万人とも伝えられています。
ある教徒は斬首され、ある教徒は長崎島原半島の雲仙の温泉地獄で焼かれ、ある教徒は天草の美しい海に沈められました。
長崎や天草のキリスト教関連資料館や博物館で、踏み絵や家屋の天井裏などに極秘に作られた信仰部屋などの実物や再現された様子を見ています。
キリスト教の禁止に従わず、「隠れキリシタン」となった人々は、隣家さえ信じなかったといいます。幕府に通報されたら処刑が待っているからです。
それでも、彼らはキリスト教の教えを信じ、村の片隅に密かに潜伏していました。
さて、大浦天主堂は現在では長崎観光の目玉のひとつになっています。1864年に長崎の外国人居留地に建てられたゴシック様式の教会で、現存する最古の教会として国宝にも指定されています。
訪れる国内外の観光客で周囲は賑わっていますが、この教会に必死の覚悟でやってきた人々がかつていました。
1865年3月17日、厳しい弾圧のなかで細々と暮らし、それでも宗教心を忘れなかった浦上の信徒十数人が大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父に信仰を告白。それは『信徒発見』と呼ばれる重要な出来事で、そのニュースはすぐにローマに伝えられたといいます。
禁教令から約250年、家族代々保ってきた宗教心が報われたひとときでもありました。
その後、1873年にキリスト教徒たちの念願だったキリスト教禁教の高礼が撤去されます。それにともないキリスト教徒たちが潜伏していた長崎の各地や天草では、外国人神父らの指導によってキリスト教会が次々に建築されていきます。
世界遺産の推進会議で承認された14の構成資産の主になるのは、このような背景で建造された教会群なのです。
田平天主堂内部(平戸観光協会HPより)
江上天主堂(五島市HPより)
伊王島の教会
長崎を訪れると、さまざまなところで小さな教会を目にします。
たとえば、ザビエルが最初に布教活動を行った平戸では、坂の手前に瑞雲寺があり、その後ろに平戸ザビエル記念教会の屋根と十字架が見えるという、少々変わった景観に出合います。わたしが訪れたときはその坂に猫が横になっており、独特の風情を漂わせていました。
長崎の西の沖に浮かぶのが五島列島です。漁業が盛んで、五島牛、五島うどんという名物もある島々ですが、ここにも教会と一体化した美しい風景があります。
初めて訪れたときにタクシーによって島の名所をまわってもらったことがあります。ある海で人がふわふわと波間に浮いているのを見つけました。その初老の男性が海からあがるのを待って声をかけました。
「なにをしていたのですか?」、すると男性が腰につけた網からイカを取り出して「これをつかまえていた」と言います。波間に浮いていると、同じようにイカも浮いてくるので、素手で捕まえられるというのです。とても驚きましたが、五島列島とは自然が豊かな素敵な土地です。
五島列島にも構成資産の教会が点在しています。長崎の沖に浮かぶ島だけに、幕府の目から逃れやすかったのがキリスト教徒たちを守った理由のひとつでしょう。
「江上天主堂」はゴシック調の立派な教会ではありませんが、近隣のキリスト教徒である漁師たちの熱意が建てたものです。厳しい生活の中で当初は自宅でミサを捧げていた人たちが作った教会は、ロマネスク風の窓がある海に似合う教会です。
上五島の「頭ヶ島天主堂」は県内唯一の石造の教会です。
また、上記のほかにもさまざまな物語をもつ教会が長崎の各所にあります。なかには世界遺産の構成資産になっていない教会もありますが、その教会にも長い歴史と人々の想いが伝わってきます。
かたちや規模はさまざまでも、その教会を建てるまでの教徒たちの執念とも呼べる熱意と、完成したときの喜びが想像できるのです。
1934年建造の﨑津教会
漁港とマッチした﨑津の教会
日本の各地を取材していますが、そのなかでも印象深いのが天草です。天草は16世紀に布教活動を受け入れて以来、キリスト教がもっとも盛んな地でもあります。
島内には大勢の宣教師が暮らし、最新の印刷機が持ち込まれて童話や書物を出版し、布教活動に利用されていました。しかし、キリスト教弾圧によって、宣教師も施設もすべてがなくなります。当時の教会は寺院に姿を変えました。
後年、この土地が生んだのが天草四郎です。
宣教師の熱心な布教活動とキリシタン大名の擁護によってキリスト教が培われた土壌であるだけに、徳川幕府がキリスト教を禁じても、それに対抗するだけの人々の想いがありました。それが結集したのが1637年に勃発した「島原の乱」といえるでしょう。
まだ10代半ばだった四郎は、キリスト教徒たちの救世主として総大将に選ばれ一揆を起こします。一揆軍は天草対岸の島原半島の原城に立てこもり、幕府の予想をはるかに上回る戦いぶりを見せて3カ月間も籠城。しかし、食料や弾薬が尽きて落城を余儀なくされました。
ちなみに原城跡も構成資産となっています。
このような土地柄だけに、天草が“天領”となってからもキリスト教徒たちはひっそりと暮らしていました。表向きは仏教徒を装い、密かにキリスト教を信仰し続けます。
マリア像が隠された観音像、十字架が隠された水注しなどが資料館などに残されていますが、これらは仏教徒を装ったキリスト教徒たちが工夫した大切な品物だったのでしょう。
﨑津集落は熊本県天草にもかかわらず、唯一「長崎県の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産になっています。
それは、この土地の人々の歴史が日本のキリスト教史に欠かせないからです。
わたしは﨑津集落の景観が好きです。漁港、漁村と教会が一体化しており、けっして教会だけが独立していません。また、仏教徒として表向きは生きた人々たちが培った独特のキリスト教感のようなものが、なんとなく感じられるからです。
「長崎県の教会群とキリスト教関連遺産」が今年、世界遺産に登録されるのかどうか、注目してみませんか?
そして登録されたなら、それは苦しい時代でも信仰を守った土地の人々の成果といえるでしょう。
現在でも教会の周囲には熱心な教徒が暮らしています。観光客が気軽に訪れ、わいわい騒いでいい場所では決してありません。しかし、これらは世界遺産に相応しい尊厳に満ちた場所です。
なお、教会堂の見学には事前連絡が必要となります。
●「長崎から世界遺産を 長崎県の教会群とキリスト教関連遺産」ホームページ
https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/index.php
【追記:2016年2月5日】
2016年の世界文化遺産登録をめざした「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」でしたが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)への政府推薦が取り下げられる見通しになりました。
< PROFILE >
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。