箱根十七湯のなかで、喧騒を離れた山里にひっそりとたたずむ芦之湯温泉。江戸時代に湯宿が開業し、温泉番付でも上位にくるほど、全国でも有数の泉質をもつ温泉地として知られています。 |
芦之湯温泉 鶴鳴館 松坂屋本店 所在地:神奈川県足柄下郡箱根町芦之湯57番地 泉質:含硫黄―カルシウム・ナトリウム・マグネシウム―硫酸塩・炭酸水素塩泉(硫化水素型) 源泉:約60度 湧出量:220l/分 pH:7~8 TEL:0460-83-6511 松坂屋本店は345年の大改革として2008年にリニューアルオープン。伝統を守りつつ、ふたつの部屋を統合して寝室とリビングスペースに分けるなど、和モダンな宿として生まれ変わった
料理は神事で包丁儀式が奉納される日本料理の祖神「四條司家」。半個室スタイルの食事処で、地産地消の素材を生かした料理が供される。朝食は10種類以上の小鉢から選べるスタイル
現在、箱根町観光協会がうたう温泉は「十七湯」。 “箱根”の印象は、きっと訪れた場所や体験した出来事によって大きく異なるのではないだろうか。 温泉地だけでなく、訪ねる宿によっても、印象はずいぶん変わってくる。 たとえばハワイ。 ハワイと言って何が思い浮かぶかは、人によって相当変わってくるはずだ。 ワイキキのデューティフリーのショッピングエリアを思い浮かべる人もいれば、ノースショアの人気のない海岸や、ロコが大好きなフリーマーケットを想像する人もいるだろう。オアフ島以外のゴルフ場の記憶しかないということもあるかもしれない。 多面性をもっている、という点では、箱根とハワイが似ているような気がする――。 そう思うのは私だけだろうか。 箱根湯本から御殿場方面に向かって、山を上っていく。 塔ノ沢、大平台を過ぎ、宮の下へ。 小涌谷を過ぎたあたりから空気感がぐっと変わってくる。 夏の避暑として訪れるのなら、このあたりから気温は一気に下がっていく。 クルマの窓を開けて走ると、植物が呼吸する濃密な緑の空気が漂いはじめるのがわかる。 箱根湯本の喧騒から隔絶された、山野の印象。 しばらく進み、標識にしたがって右に折れると、今回の目的地である温泉地に到着した。 芦之湯温泉。 機会があれば一度訪れてみたかった、泉質がいいという温泉地だ。 箱根町温泉協会によると、鎌倉時代の弘安3年(1280)には、山岳信仰の行者が湯治場として使っていたという記録が残されているという。 訪れた宿、松坂屋本店の湯あがり処に、その記述が掲げられていた。 鎌倉中期の歌人、飛鳥井雅有が関東下向の折に記した「春の深山路」。 その箱根越えの一節に、記述がある。 「あしのうみのゆとて温泉もありいかさまにもふしぎおほし」 この一帯は湿地帯であるにもかかわらず、温泉が自然湧出していたのだろうか。その湿地がどうやら温泉のように温かかったらしい。 江戸期になり、伊勢から箱根に移り住んだ大南半左衛門が湯宿を着想。 この一帯は一般の入湯はできず、山岳宗教の箱根権現詣での道者しか許されていなかった。 そこで半左衛門(のちの勝間田清左衛門)は箱根権現の許しを得て、湿原の水を早川と須雲川に流して干拓に着手する。 7年の歳月をかけ、ようやく寛文2年(1662)に湯宿「伊勢屋」(のちの松坂屋)を創業。徳川四代将軍家綱の時代のことだ。 松坂屋本店の展示コーナーには、もうひとつ、興味深い資料があった。 天保11年(1840)に制作された「諸国温泉効能鑑」。 いわゆる相撲番付をまねた温泉ランキングだが、紀伊熊野新宮之湯を勧進元に、紀伊熊野本宮之湯、伊豆熱海之湯、津軽大鰐の湯を行司として、東西の有名温泉地が番付表になっている。 当時、箱根七湯と呼ばれた箱根のすべての温泉地が記載されており、なかでも芦之湯は、東の大関の草津から数えて、関脇の那須、小結の諏訪、前頭筆頭の湯河原に次ぐ前頭二枚目に挙げられている。 芦之湯の何が、それほど印象深かったのだろう。 それは、いまもこの宿を訪れると理由がわかる。 松坂屋本店のこだわりは、自家源泉のかけ流しにある。 約60度の源泉を、加水、加熱、循環をいっさい行わず、自然に温度を下げて館内に引湯しているのだ。 浴場に入ると強い硫化水素臭がした。いわゆるゆで卵臭だ。 ふたつの湯船の中央に源泉口があり、いったん大きな陶器の鉢で受け止めてから浴槽に流れるようになっている。 湯船に入ってみる。 硫黄の臭いの強さに反し、肌を刺すようなピリピリとした刺激は感じられない。 源泉に手を触れてなめてみても、酸味が感じられない。 この香りで思い出すのが、蔵王や草津といった硫黄臭の強い酸性の温泉地だ。 硫黄臭の強い温泉は、過去に入湯したもののなかにも、いくつもある。 ●蔵王温泉(山形) =含鉄・硫黄―アルミニウム―硫酸塩・塩化物温泉(硫化水素型) 強酸性 ●草津温泉(群馬) =含硫黄―アルミニウム―硫酸塩・塩化物温泉(硫化水素型) 酸性 ●万座温泉(群馬) =含硫黄―マグネシウム・ナトリウム―硫酸塩温泉(硫化水素型) 酸性 ●高峰温泉(長野) =含硫黄―カルシウム・ナトリウム―硫酸塩温泉(硫化水素型) 酸性 どれも印象的な湯力の強い温泉で、酸性を示すものばかり。 不思議に思い、いったん脱衣所に戻り、温泉分析表を見てみた。 驚いた。 pH値が7.3とある。 ほぼ中性に近い、弱アルカリ性だ。 硫黄臭の強い温泉は酸性とばかり思っていた。 たしかに、弱アルカリ性の温泉のなかには、ほのかに硫黄臭が香るものもある。だが、芦之湯の温泉は、酸性の温泉に匹敵するぐらい硫黄臭が強い。 それが意外であり、驚きだった。 アルカリ性の硫黄泉はほかにもあるのだろうか。 あとで調べてみると、中性の硫化水素泉が見つかった。 ●七味温泉(長野) =含硫黄―カルシウム・ナトリウム―塩化物温泉(硫化水素型/低張性中性高温泉) これはpH7.0で中性だ。 空気に触れたり気温や湯の温度の変化よって緑や白、淡い茶褐色に変化する温泉で、かつてスキー取材の合間に、わざわざこの山深い温泉を訪ねて行ったことを思い出した。 だが、このときは色の変化に気を取られて、酸性でないことにはまったく気づかなかった。 酸性が強いと、さすがに長湯はできない。 休み休み、浴槽から出たり入ったりを繰り返しながら、滞在の合間をみて何度も風呂に足を運ぶ。 酸性が強くなるほど、きっと湯あたりしやすく、疲れも出るのだろう。 だから、芦之湯ではゆったりと長湯を楽しむことができ、ほんとうに癒されるような心地がした。 それでいて効能の強さも感じる。 温泉番付で芦之湯が上位にくるのも意味があったのだ。 松坂屋本店の大浴場には露天風呂はない。 だがそれを補って余りある、素晴らしい泉質の湯があった。 自分にとっての箱根の温泉はここがスタンダードになる。 実に有意義な、灼熱の夏の思い出になった。 |
箱根神社の大鳥居は湖に面しており、湖上から正面に回り込んでみたい。 遊覧船もあるが、小さなボートでのんびり揺られるのもいい。
< PROFILE >
長津佳祐
観光やレジャー、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。ブログ「デュアルライフプレス」
http://blog.duallifepress.com/もよろしく。
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