間もなく始まるスキーシーズン。この連載でも雪山体験を数回取り上げているが、今回はスキー雑誌の編集長を務めた筆者が体験的なスキーの楽しさを語る。スキーの世界を取り巻く人たちは魅力であふれていた。
最終採用試験は社長面接だった。小柄でメガネをかけ、紺色の上質スーツを着こなした三代目社長は、「君は雑誌向きだね」と、質疑応答のあとで笑いながら言った。
しばらく経ってからの入社式。手渡されたのは販売部勤務を命じる社命だった。
「あれ、話が違うじゃないか、雑誌編集部だったはずだろ」と、心の中でつぶやいたぼくを気にする風でもなく、社長はにこりともせずに、「がんばってください」とひとこと言った。
翌日から販売部内研修、取次・書店まわりが始まり、3週間後には田町の大手書店での販売員研修に就いた。
研修を終えて1週間ぶりに出勤すると、すぐに総務部から連絡が入って社長室に呼ばれた。「あれれ、なにか失敗したかな」、書店の日々を思い返す。ヘマはしていないはずだ。
ぼくを待っていたのは、「ブルーガイドスキー誌編集部」への移動命令だった。
ぼくは中学から大学までサッカー部に属していたが、冬季になってサッカー部の練習が減るとスキー場に通っていた。
スキーを始めたのは中学3年である。同級生に西田吉輝クンがおり、彼の父親がゴールドウインというスポーツウエアメーカーの創業者であったために、「みんなでお揃いのセーターを作ってスキーに行こうぜ」のひとことにのったのだ。
「今度の冬休み、スキーに行くのでお金をください」と、父と母にお願いする。
「みんなって誰だい?」、父が尋ねる。
「みんなだよ、みんな」。もちろん、クラス34人がスキーに行くはずもない。せいぜい6人だ。
でも、そんなのは紅顔の“中坊”が何かをねだるときの常とう手段だし、親だってわかっている。
こうしてぼくら6人は、ゴールドウインが取り扱っていたフランス製のフザルプのセーターを着て、志賀高原熊の湯に夜行列車で向かった。それがスキーの事始めだ。
いま西田吉輝クンは父が創った会社に勤務、本社取締役および関連会社社長として力を発揮。ゴールドウインはヘリーハンセン、ザ・ノース・フェース、エレッセ、チャンピオンなどのブランドをもち、スポーツウエアメーカーの大手として業界に君臨し続けている。
熊の湯でのスキー。ぼくらはひたすら直滑降に励んだ。初心者用リフトに乗り、そこからまっすぐに滑る。
ぼくらが知るもっとも有名なスキーヤーが三浦雄一郎さん(高年齢でのエベレスト登頂でも知られる)で、彼の偉業は富士山直滑降だったからだ。
普通ならプルークで制動や曲がる技術を覚えたはずだ。しかし、ぼくたちは直滑降でスピードを求めた。転べば止まるのだから、制動技術なんていらない。
初めてのスキーは、そのスピード感がたまらなかった。
スキー場2日目。西田クンは藤島スキースクールにただひとり参加した。当時、藤島スキースクールのユニフォームはゴールドウインが提供していたから、そのコネもあったのだろう。
3日目、西田クンのスキーは変わった。直滑降しか知らないぼくらの横を、華麗なパラレルターンで滑っている。
最初のスキーは指導者が肝心であるのを、ぼくは中学3年で知った。
スキー雑誌の編集をしていたときに、スキーを嫌いになった理由を調べた経験がある。ダントツの第1位は、初体験時の悪印象だった。
たとえば、無理やり上級コースに連れていかれた、滑れもしないのにリフトに乗せられた、などが原因にあげられる。
これからスキーを体験するなら最初が肝心。コーチ経験のある人に連れていってもらう、あるいはきちんとした指導を受けるのがいちばん。まして、止まる技術も習得しないで、直滑降でスピードばかりを求めるのは無謀もいいところだろう(反省)。
さて、ぼくが移動したブルーガイドスキー誌は、その名のとおりスキー場ガイドが目玉のスキー雑誌だった。全国のスキー場の特徴、飲食店やおみやげ店ガイド、温泉ガイドはずば抜けていたと言っていい。
しかし、有名スキーヤーのレッスンや写真は『スキージャーナル』、『スキーグラフィック』誌にお任せだった。女性受けは『スキーヤー』誌がいちばんだった。
1990年に副編集長になり、92年に編集長になると、ガイド一辺倒からの脱却をぼくは試みた。ガイドという基盤に加え、有名スキーヤーによる華やかなページ作りと、効果があるレッスンページに力を入れたのだ。
それから、著名スキーヤーとの交流が始まった。
猪谷六合雄氏という日本の近代スキーの草分け的存在を父にもち、彼の英才教育とアメリカでの研鑽によって1956年のコルチナダンペッツォ五輪の回転競技で銀メダルを取得した猪谷千春氏以降、日本のアルペンスキーヤーは、海和俊宏氏、岡部哲也氏といった天才を生むものの、世界の頂点に立つまでには至らなかった。
それでも、日本にスキーブームが起きたのは、苗場をはじめとするスキー場の巨大化と、映画『私をスキーに連れてって』、テレビ番組『SKINOW』のヒットがきっかけだった。
加えてアルペンスキーとは異なる“デモンストレーター”というスキー技術を誇るスキーヤーたちの人気もスキーブームを後押しした。
そこでぼくは、華のあるデモンストレーターを自分の雑誌の核にしようと考えた。彼らの同意を得るために、全日本スキー技術選手権に通った。
技術選とは、簡単にいえばデモンストレーターをはじめとするスキーヤーによる、日本一うまいスキーヤーを決める大会だ。
アルペンはタイムを争う。しかし、こちらの大会は体操やフィギュアと同じ採点競技。コブ斜面や急斜面、緩斜面で決められたワザを披露し、高得点者が上位に入る。
佐藤正人氏、吉田幸一氏といったスターがいたが、彼らはすでにライバル雑誌の顔だった。だから、ぼくが口説き落とす対象は中堅や若手選手だった。
技術選では若手編集部員に取材を任せ、編集長のぼくはゴール下で選手の滑りを眺めていた。本当に、ただ見ていただけだ。
中堅どころで優勝争いにもからむ佐藤譲氏、渡辺一樹氏が滑り終える。ぼくはゴール地点で待ち構え、「ブルーガイドスキーにも出てください」と声をかける。
当然、きょとんとされる。滑り終わった直後に、なにを言ってんだという顔をされる。
SKINOWの常連だった我満嘉治氏、伊東秀人氏にも声をかける。種目が変わってもゴール地点で声をかける。そのうちに、「いいですよ」と、返事が変わってきた。よし、ぼくの雑誌作りの夢が叶う。
まだ他誌に掲載されていない若手もほしい。
そのときだった。尾瀬岩鞍スキー場の急でコブだらけの斜面を、猛烈なスピードで滑り下りる選手がいた。
ハイスピードなのにスキーが浮かない。斜面をなめてくる。コブの頂点ではストックより頭が低くなる。ヒザが深く曲げられている証拠だ。
こんなスキーヤーは見たことがなかった。それが中盤まで続き、そして彼は大転倒した。それが、なんだか素敵だった。大いなる挑戦に見えた。彼と共に歩む未来が見えた。
しょげている彼にゴールで声をかけた。彼は驚いた表情をしたが、ぼくの雑誌の顔になってほしいとの言葉に、「いいですよ!」と返事をくれた。それがアルペンスキーから技術選に転向した1年目の粟野利信氏だった。彼はその後、全日本スキー技術選手権で2連覇を飾り、ブルーガイドスキーの表紙や特集にも数多く登場してくれることになる。
ぼくは佐藤譲氏、渡辺一樹氏、伊東秀人氏、我満嘉治氏、粟野利信氏らと国内、海外でスキーを共にし、スキー談義に華を咲かせた。一流と共に時間を過ごすことで、スキーの魅力、奥深さを知った。
彼らは今でも全国のスキー場で活動している。ガーラ湯沢には佐藤氏、蔵王には伊東氏、栂池高原には渡辺氏、そしてキロロの代表を経て今シーズンから、かぐらのスクールに粟野氏が代表として就任する。
一流スキーヤーは実は身近にいる。そして、スキーの魅力をとことん追求した彼らには、彼らだけが知るノウハウがある。
今年のスキー体験は、そんな彼らと時間を共有してみればいかがだろうか。
ぼくがスキー雑誌の編集長として、多くのスキーヤーにスキーの楽しさを発信し続けられたのは、彼らと共にした特上の時間があったからだと確信している。そしてそれは編集長の特権ではなく、読者のみなさんも味わえる、最高のスキー体験なのだ。
●かぐらスキースクール(粟野利信校長)
http://www.kagura-ss.jp/
※コラムに名前を掲載したスキーヤーは現役としてスクールなどを開校しています。ぜひ検索して極上のレッスンを受けてみてください。
※写真の一部は各スクールのホームページよりお借りしています。
木場 新
休日評論家。主な出版物に共著の『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』、一部執筆&プロデュースの『温泉遺産』、『パックツアーをVIP旅行に変える78の秘訣』などがある。ウェブサイト「YOMIURI ONLINE」に「いいもんだ田舎暮らし」の連載ほか。