佐賀県にある古湯温泉は、その名の通り、日本最古の伝説が残る温泉地。湧きたてのピュアな湯は、古代の賢人たちを癒した湯なのかもしれない。
所在地:佐賀県佐賀市富士町古湯875番地
TEL:0952-58-2021
●泉質:アルカリ性単純温泉
●源泉温度:37度
●湧出量:不明
●pH:9.3
●日帰り入浴:11:00~14:00(受付終了)
●入浴料:大浴場/大人1000円、子ども500円、貸切風呂/2500円(夕鶴の湯)、2000円(朝鶴の湯)
佐賀市内から北西へ約20㎞。
「ぶくぶく自噴泉」を探して、私は古湯温泉にいた。
「ぶくぶく自噴泉」とは、浴槽そのものが源泉になっていて、湯底の砂や岩の隙間からぶくぶくと温泉が湧き出す温泉を指す。
源泉温度が適度で、しかも硫化水素などの有毒ガスが発生していないことを条件に、源泉に直接入浴できる奇跡の湯だ。
国道323号線から、温泉通りという細い路地を入って少し行くと、温泉旅館が数軒、姿を現した。路地を左折した先に、今回の目的地、元湯旅館鶴霊泉があった。
鶴霊泉の裏庭には石碑が建立されており、一面が苔で覆われている。
近づくと文字が刻んであった。
うつせみの病やしなふ寂しさは
川上川のみなもとどころ
明治から大正時代にかけて活躍した歌人、斎藤茂吉(1882~1953)の歌碑だ。
山形県出身だが、14歳で上京し、開成中学から東京帝国大学の前身の旧制第一高校へと進学、医者になった才人だ。
明治37年(1904)12月、22歳で学生の茂吉は、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集「竹の里歌」を読み、強い感銘を受ける。
明治39年(1906)、子規の流れをくむ伊藤左千夫に入門。本格的に短歌の道を歩み初める。のちに歌誌「アララギ」の中心的な歌人となった。
明治43年(1910)に、28歳で東京帝国大学医科を卒業。同大学助手として付属巣鴨病院に勤務し、精神医学を専攻する。
大正6年(1917)11月、35歳の茂吉は長崎医学専門学校の教授に任じられ、長崎に赴任する。そして、大正10年(1921)まで、精神医学と法医学を講じるのだ。
古湯温泉を訪れたのは、そんな長崎勤務時代の大正9年(1920)のことだ。
同年1月、当時流行していたスペイン風邪にかかり、6月に喀血して入院。7月に退院した後、雲仙をはじめ九州各地を巡って療養した。
ほとほとにぬるき温泉浴むるまも
君が情けを忘れておもへや
わが病やうやく癒えぬと思ふまで
姥野の山秋ふけむとす
病気療養のため、古湯温泉には3週間滞在し、38首の歌を残している。
宿の鶴霊泉には、この石碑だけではなく庭園を独り占めにできる湯があると聞き、さっそく足を運んでみた。
庭園貸切風呂「夕鶴の湯」。看板には命名者仲代達矢の名が記されている。
浴室が、なかなか凝った造りで驚いた。
和室にそのまま浴槽をしつらえたような趣きで、庭に面した一面に障子がはめ込んである。しかもその一部が借景のように外に向かって吹き抜けになっているのだ。
湯に浸かりながら、手入れの行き届いた庭園を眺めるという趣向だ。
池の泉質が澄んでいるからなのだろう。女将の話では、夏になればカジカが鳴き、ホタルも舞うのだという。
そして、もうひとつ、自慢の浴槽があった。
それが内湯の「天然砂湯」だ。
男湯に入ると手前と奥にふたつの浴槽が並んでいた。
手前の浴槽の床はタイル張りだが、奥が砂地になっている。
この浴槽こそ、求めていた「ぶくぶく自噴泉」だ。
源泉温度37度。pH9.3。無味無臭。
やや強めのアルカリ性単純温泉。いわゆる美人の湯だ。
湯にぬめりがあり、肌がすべすべになる。ややぬるめなので長湯できるのがいい。
本来は床が岩盤になっていて、温泉は岩盤の隙間から湧出しているのだが、岩盤を守るために砂を敷き詰めてあるのだという。
もちろん、源泉はそのまま。加温加水をしないかけ流しだ。
入り慣れているなじみのある泉質のはずなのに、湯は水道水とは比べ物にならないぐらいフレッシュでピュアな感じがする。
まさに温かい湧水に入浴しているような感動がある。
手前のタイル張りは42度に設定してあり、こちらは加温して体を温めるための浴槽になっている。
細やかな心配りに、宿の居心地のよさが感じられた。
脱衣所の壁に、手書きで宿の縁起が書いてあった。
「古文書に依りますと、七代孝霊天皇の折り、秦の始皇帝第三皇子徐福が薬草を求めて我が国に渡来。その折りに鶴霊泉を発見したとあり、古湯唯一川の砂湯、天然湧出泉です」
あまりにもさりげない記述で見落とすところだったが、徐福の名に仰天してしまった。
徐福とは、天皇の始祖とも深いかかわりがあると考えられる、謎の古代史を解き明かすキーマンのひとりだからだ。
徐福は中国が秦と呼ばれていた紀元前3世紀の人物。
前漢時代の歴史家・司馬遷(紀元前145/135~紀元前87/86)の『史記』に、徐福についての記述がある。
徐福は始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬があるので、その薬を求めに行きたい」と申し出た。一度は得る物がなくて帰国したものの、今度は3000人の技術者や若い男女を連れ、五穀の種を持って、再び出航するのだ。
しかし、徐福は戻ってはこなかった。東方に広い平野と湿地を得て王になったという。
この東方こそ、日本ではないかという推論が、信憑性を帯びてきているのだ。
中国ではこれまで、徐福は伝説上の人物と考えられてきた。
しかし、近年になって江蘇省に徐福の子孫が住んでいることが確認された。
しかも、日本各地では、徐福についての伝承がいたるところに残っている。
佐賀は、徐福の2度目の渡航の際、漂着した地に違いないという説もある。
実際に佐賀県で、神社などの伝承で徐福の足跡が残っている地には、以下のような場所が挙げられる。
伊万里、黒髪山、武雄温泉、蓬莱山、竜王崎、有明海、そして金立山。
徐福については、別の機会に追ってみたいと思うが、この金立山こそ、徐福がめざした霊薬のある三神山であるという伝承がしっかりと遺されている。
そして、金立山の西方、脊振山と天山の山峡にあるのが、古湯温泉なのだ。
この近くには、弥生時代、稲作文化が伝承した原点ともいえる吉野ヶ里遺跡がある。
ここは、徐福とつながる手がかりは発見されていないもの、稲作の伝来と中国に関する品が出土し、関連性を指摘する歴史家もいる。
日本の温泉のなかで、紀元前の伝承を遺している場所はほとんどない。
しかも、現在もありのままの源泉に直接入れるというのは奇跡と言っていい。
その意味でも古湯温泉は、伝承といい、その浴槽といい、守っていくべき稀有な温泉なのだ。
長崎自動車道・佐賀大和ICより国道263号線、国道323号線で14㎞、約15分。西九州道・今宿ICより県道56号線で35㎞、約40分。
長津佳祐
ゴルフや温泉、クルーズ、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。山と溪谷社より共著で『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』を上梓。北海道から九州まで自噴泉の湯船を撮り下ろしで取材した、斬新な切り口の温泉本になっている。