羽生結弦選手の次元を超える演技や、浅田真央選手の数年にわたる活躍で、フィギュアスケートへの注目が高まっています。しかし、「フィギュアを子どもにさせるとお金がかかる」といった経済的なお話も広まって……。本当はアイススケートは気軽に体験できるウインタースポーツなのです!
駒ヶ岳スケートセンターの絵葉書
当時は氷を見るとうきうきしたものだ
JACKSONのフィギュアシューズ
ぼくが初めてアイススケート用の靴を履いたのは、小学校の3年生ぐらいのことだったと思う。
場所は箱根。駒ヶ岳ケーブルカーの山頂駅の前にあった「駒ヶ岳スケートセンター」においてである。
当時、祖父は国際キリスト教大学の教授をしていた。日頃は研究をしているから大学内にあった教授宅を離れることはほとんどない(この家は現在の野川公園、当時はICUが所有するゴルフ場を見下ろす緑に包まれた高台にあった)。
メンデルの法則を日本に伝えた遺伝学の研究者だったから、庭に温室があり、遺伝研究のために栽培しているさまざまな植物があり、目を離せなかった、いや、目を離したくなかったのだろう。
それでもお正月は特別だ。祖父は4連泊で箱根・強羅の温泉宿に滞在し、日ごろの疲れを癒すのが常だった。
ぼくたち家族は祖父が箱根に滞在しているときに箱根を旅した。こちらは子ども3人がいる家族連れ、強羅の老舗旅館には泊まらずに、別の安い宿に泊まったと記憶している。連泊するはずもなく、1泊がせいぜいだ。
だから、年始に祖父を訪ねた(お年玉をもらった)後は、短い時間で箱根を遊んだ。そして、数年にわたり通ったのが、芦ノ湖を眺めながら登る駒ヶ岳ケーブルカーの山頂駅前に設置された駒ヶ岳スケートセンターだった。
レンタルシューズで滑るのだが、初めてのときはたいていの人がフィギュア用のシューズを借りる。
もちろん、くるくる回転しようというわけではない。ブレート部(靴の下の鉄の部分)が短く、先端にぎざぎざしたトウピックがついているので、歩行するように滑る初心者にとって、氷を先端部で蹴りやすいのだ。
こうしてぼくは年に一度だけアイススケート少年になった。しかし、それはまるでひよこのようにヨチヨチしたもので、左右に足を蹴ってスピードスケート選手のごとく滑れるのは、ずっと後の話だ。
思い出の駒ヶ岳スケートセンターは1985年に営業を終了している。中学のころに滑りに行った池袋にあったスケートセンターもなくなってしまった。
1969年に122カ所だった国内スケートリンクは2006年で96カ所に。屋外リンクに関しては1985年に672カ所もあったが2008年では115カ所まで減少したという記録がある。
このあたりもスケートが身近でなくなった原因かもしれない。
中学1年になると、ぼくはやたらとスケート場に行った。しかも、なかなかヘビーな行程なのだ。
それはたぶん、父親が寮生活を始めたぼくとの時間を大切にしたかったのだろうと、今なら思える。
「今度の土、日はなにしてるんだ」と、父から寮に電話がかかってきた。「べつに、なにもないよ」とぼく。
「なら、誰か友達を連れて帰ってきなさい。おもしろいところに連れていってあげるよ」と父。
ぼくは土曜日の放課後に友達を連れて電車で50分ほどの家に帰る。早めの夕食を終えるとクルマに乗れと父が言う。防寒対策を施してぼくと友人が乗れば、父はご機嫌でクルマを出発させる。
行きついた先は富士急ハイランドだった。
富士急ハイランドは現在では絶叫マシンで大人気だが、当時はこれほどまでに来場者が多かったとは思えない。しかし、冬になるとオールナイトスケートを実施しており、スケート好きやカップルに注目されていた。
正直、一晩中スケートに興じるのは、なかなかたいへんなことだ。
でも、ぼくと友達を従えてうれしそうに滑る父を見ていると、なんとなく「休憩しよう」とは言い出せなかった。
またあるときは、こんな調子で呼び出されて1泊で蓼科高原にでかけた。理由は白樺湖にスケート場があったからだ。初めて滑る天然の氷だった。
人工のリンクに比べると小さな突起が随所にあって滑りにくい。しかし、蓼科山を眺めながらのスケートは開放感があって気持ちいい。
富士急ハイランドのスケート場は今年も営業されているが、白樺湖でスケートはできなくなった。地球温暖化の影響も少なくないと思う。湖でのスケートはできなくなったが、周囲には滑りやすいスキー場が点在し、白樺湖は今でもウインタースポーツ愛好者に人気だが…。
祖父は諏訪湖で“下駄スケート”で遊んだと言っていた。祖父が子どものころだから、110年ぐらい前のことだろう。諏訪湖が凍るのは近ごろでは珍しい出来事になっている。
いつの間に新聞の積雪情報にもスケート場の欄はなくなった。
地球温暖化もスケートを身近な存在でなくしたひとつの原因だろう。
父に何度もスケート場に連れていかれるうちに、借りるシューズが変わってきた。もちろん、くるくるまわったり、ジャンプができるのならフィギュアシューズでいいのだが、それよりもスピードを求めるようになっていたのだ。
脚を左右に蹴り出して加速できるようになっていたし、コーナーでは脚をクロスすることも見まねで習得していた。
すると、ホッケー用やスピード用のシューズをレンタルしたくなるのだ。
スピード用はブレードが長く、中学1年のぼくには特別なものに思えた。これを履ける人は、それなりに滑れるというわけだ。得意になってコーナーリングをしたのを覚えている。
しかし、ぼくが父と一緒にスケートをしたのは中学2年の冬が最後だった。
中学3年になると友人たちとスキーに行くようになったからだ。仲間だけでロッジに泊まって行うスキーは最高だった。こうして、いつしかスケートはしなくなってしまった。
小学校のときに父の手をつかんで滑ったこと、父に連れられてでかけたスケート場と、さまざまなシーンが目に浮かぶ。
とくに最初のときは大人に手をつないでもらわないと、とても滑れるものじゃない。そのぶん、家族の思い出が強烈になる。
現在でもオープンしているスケート場はたくさんある。ぜひ、家族ででかけてアイススケート体験をしてみてほしい。
【日本スケート連盟ホームページ 全国スケートリンク】
http://skatingjapan.or.jp/rink/
< PROFILE >
木場 新
休日評論家。主な出版物に共著の『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』、一部執筆&プロデュースの『温泉遺産』、『パックツアーをVIP旅行に変える78の秘訣』などがある。ウェブサイト「YOMIURI ONLINE」に「いいもんだ田舎暮らし」の連載ほか。
木場 新
休日評論家。主な出版物に共著の『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』、一部執筆&プロデュースの『温泉遺産』、『パックツアーをVIP旅行に変える78の秘訣』などがある。ウェブサイト「YOMIURI ONLINE」に「いいもんだ田舎暮らし」の連載ほか。