出雲大社から日本海沿いの国道9号線を南西に約60㎞。島根県の太田市と江津市のほぼ中間に、温泉津温泉(ゆのつおんせん)はある。ここは日本で2番目に世界遺産に認定された温泉地で、石見銀山の銀搬出港だった。
元湯 泉薬湯
所在地:島根県太田市温泉津町温泉津
TEL:0855-65-2052
●泉質:ナトリウム・カルシウム-塩化物泉
●源泉温度:49.6度
●pH:6.8
●湧出量:57?/分
●営業時間:6:00~20:00
●入湯料:370円
●定休日:不定休
所在地:島根県太田市温泉津町温泉津
TEL:0855-65-2052
●泉質:ナトリウム・カルシウム-塩化物泉
●源泉温度:49.6度
●pH:6.8
●湧出量:57?/分
●営業時間:6:00~20:00
●入湯料:370円
●定休日:不定休
石見銀山・龍源寺間歩の入口。江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、入口から水平に約630m続いており、その156mまでが公開されている
大森地区の街並み散策ゾーン。食事処やカフェもあり、休みながら散策が楽しめる
温泉津温泉「元湯 泉薬湯」。塩分濃度が濃く、なめると塩気と旨味すら感じる。半白濁で、若干鉄分の香りもする
唐破風の上には狸の像が。全国の温泉でも狸発見は珍しい
医王山温光寺の地蔵堂。この下に元湯の源泉がある。インターフォン越しに湯が湧く音が聞こえてくる仕組み
クイズ番組を見ていると、かつて学校の歴史で教わったことが、ずいぶん様変わりしていることに気づかされる。
鎌倉幕府の成立年は1192(いいくに)ではない。
1万円札に使われていた聖徳太子の肖像画は奈良時代以降の作で、聖徳太子ではなく厩戸王と表記されている。そもそも太子が実在したことを疑う歴史家もいるほどだ。
日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルも、現在はシャビエルと表記されているそうで、教科書のあの肖像画は没後に日本人絵師によって描かれたもの。現在の教科書では使われていない。
ザビエルはイエズス会創設メンバーのひとりだが、イエズス会に頭頂部を剃髪する習慣はないという。
事実はひとつでも、歴史の評価はつねに流動的であり、後世の人々の視点によって変わっていくものだということがよくわかる。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは天文18年(1549)。
戦国時代の英雄がようやく歴史の表舞台に登場し始める頃で、松平竹千代(徳川家康)が人質として今川氏へ下った年と重なる。
ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世の命により宣教師としてインドのゴアに派遣され、インドや日本で布教を行なった。
ちなみに、ザビエルの出身はポルトガルではなく、現スペイン北東部にあったナバラ王国のバスク人だ。
すこし話は飛ぶが、『利休にたずねよ』で直木賞を取った山本兼一の小説に、『銀の島』という秀作がある。
舞台は明治末期。語り部となる作家の主人公が、ザビエルの伝記を書くためにゴアを訪れる。そして、主人公がザビエルゆかりの教会で、通訳をしていた信者アンジロウ(ヤジロウ)の未発表の手稿を翻訳依頼されることから、物語は始まる。
その手記には、驚くべきことが記載されていた。
<シャビエル神父は、ウソツキナレバ、ソノコトバヲ信ズル可カラズ>
<ポルトガル船襲来シ、銀山を奪取セントス>
ポルトガル国王は特命司令官を任命し、現在の島根県にある石見銀山(いわみぎんざん)を占領するために、日本に大艦隊を差し向けたというのだ。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』により、当時の日本はヨーロッパでは“黄金の島ジパング”としてすでに知られていた。
さらに、大永6年(1526)には石見で銀鉱山が発見され、16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、産出される銀は年間約1万貫(約38トン)にもおよんだ。日本は世界の産銀量の3分の1を占めていたといわれ、日本銀のかなりの部分が石見産と考えられている。
『銀の島』はフィクションだが、時代背景は史実に基づいており、歴史的な常識を覆すストーリーのなかで登場人物が描かれていく。これが真実なのだろうかという驚きや興奮が散りばめられている。
興味を引かれたことのひとつは、石見銀山の存在が、すでにヨーロッパで知られていたという事実だ。
島根県立古代出雲歴史博物館が所蔵する日本図がある。ヨーロッパで1595年に描かれたものだ。その図の「Hivami」(石見)付近に「Argenti fodinae」(銀鉱山)の表記がある。
大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国が植民地開拓に乗り出した時代。
『銀の島』のストーリーのように、 “黄金の国”を手中にするためにポルトガルが大艦隊を差し向けたとしてもおかしくない。
それから時を経ること400年強。
2007年7月、「石見銀山遺跡とその文化的景観」が、国内で14件目となる世界遺産に登録された。
石見銀山は、現・島根県太田市にある。
16世紀から20世紀まで、石見の銀は約400年にもわたって採掘されてきた。
銀を産出した柵内(さくのうち)と呼ばれる範囲は、江戸時代の絵図を参考にすると約300ヘクタールにもなり、山中には露頭掘り跡や坑道跡が600カ所以上も残っている。
付近には精錬工場や生活の場であったことを示す平坦地が1000カ所以上も確認されている。
観光でここを訪れるのなら、クルマで最初に石見銀山世界遺産センターに向かうといい。センターには資料がたくさんあり、石見銀山の概容がわかる展示がある。
次に東西に約3㎞延びている大森地区へ向かう。大森地区では街並み散策や坑道見学ができる。
石見銀山は交通規制があって、クルマでの入場が制限されている。駐車できる台数は限られる。観光シーズンの場合はセンターからシャトルバスに乗り、観光案内所がある大森乗降所まで行くのが無難だ。
観光案内所から西に延びる約2.3㎞が銀山地区。銀生産の中心地で、集落や寺や神社、坑道跡などが点在している。最奥の龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)が通年で唯一一般公開されている坑道だ。
観光案内所から龍源寺間歩をまわって戻ってくるまで、徒歩で約45分。観光案内所付近にはレンタサイクルもあるので、時間が限られているときにはぜひ使ったほうがいい。
さて、今度は東側へ行ってみよう。
現在は石見銀山資料館となっている大森代官所跡までが街並み散策ゾーン。武家屋敷や商家などの街並みが残っており、所どころに雑貨屋や休憩所がある。歩くだけなら約20分で観光案内所まで戻って来られる。
銀鉱石は街道をたどり、日本海の鞆ヶ浦(ともがうら)に運ばれた。リアス式海岸の狭い湾で、岸壁が迫っていて防御にも適した良港だった。銀山開発初期の16世紀中頃、銀鉱石搬出港として使われた。
海沿いに8㎞ほど南西に進むと、赤い石州瓦の木造建築が印象的な、沖泊(おきどまり)という港がある。ここは毛利氏が支配し、16世紀後半に銀搬出港として栄えた場所だ。
そしてここに、温泉津(ゆのつ)と呼ばれる、世界遺産となった温泉地がある。
温泉津は石見銀山が世界遺産認定を受けたエリアの一部で、「温泉津重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。
湯の峰温泉つぼ湯に続き、日本の温泉地では世界遺産2例目となる。
海岸近くまで迫る温泉街にはいまも木造の古い街並みが残っており、数軒の飲食店や土産物屋のほか、約15軒の宿がある。
温泉津温泉の歴史は古く、発見時期は明らかではない。
だが、平安時代にはすでに温泉の存在が都に知られていた。旅の僧が負わせた古狸の傷が治ったという伝承もある。
港から山に向かって上がった奥に、長命館という老舗宿がある。
その向かいにある長命館が経営する共同湯が、温泉津という村が興るきっかけとなった「元湯 泉薬湯」だ。
驚くべきは、発見から現在まで、660年以上にわたって伊藤家が個人経営で「元湯 泉薬湯」を営んできたということ。
伊藤家の屋号は「温泉屋(ゆや)」で、現在の主人、御年80歳の伊藤昇介さんは、なんと19代目に当たる。
温泉津は、南北朝時代の観応・文和の頃(1350~1355)、伊藤家初代・重佐(しげすけ)が霊泉を発見し、温泉場を開拓したことから始まる。湯の薬効が口コミとなって人が集まり、村として発展してきた歴史がある。
伊藤家では代々古文書が受け継がれており、漢文で表記されている「温泉由来記」もあるが、昇介さんがまとめた解釈文の資料から抜粋してみる。
<石州温泉郷湯津の温泉の出泉は何の時代の何年か、明らかにすることは出来ないが、平安時代すでに温泉の所在が平安の都に知れていた。聞き伝えに謂う。往古の何時ごろからか、この浦浜の奥に、杉の樹木に覆われた守山があり、頂きにはひと際高い、古い大杉の木があり、その下に小さな古廟があった。山の谷の巌間には、出泉で出来た小さな池のような泉溜があった。ある時、浦の浜に一人の旅の僧現れた。旅の僧はこの古廟に一夜の睡美枕を求めた。翌朝、旅の僧が古廟を後に山を下って行くと、傷を負った大きな古狸が池に浸って傷口を舐めていた。旅の僧は杉の木立に身を隠し息を凝らして、じっと古狸の様子を見守った。古狸はやがて森の中へ消えていった。旅の僧は古狸が入っていた池に行き、手を入れて見ると温かい温湯だった。旅の僧は浦に出て傷を負った古狸の話を残して去っていった。泉底から湧出する温湯は、病苦を取り除く霊泉として諸人の知るところとなった。>
この故事ゆえか、「泉薬湯」入口の唐破風(からはふ)には、狸の像がちょこんと乗っている。
「温泉由来記」には重佐温泉場開発の由来が続く。
<星移り代改まり、観応、文和の頃、多くの霊験を積んだ伊藤重佐という修行者が、ここに新たに霊泉の盤を改め洞穴を開き、盤上に薬師の佛堂を建立し、盤下に本願功徳の徳化を流し、温泉場を開発し以て諸人の疾苦救済を発願した。>
浴場の裏手には薬師堂があり、その背後は崖で高い壁となっている。
昇介さんの話によれば、この崖の上に、狸が見つけたという古代の源泉跡がある。
薬師堂の建立は弘治年代(1555)以前。その右側に地蔵堂が建立されている。
安永の大地震(1773~1774か?)の際に崖が崩れ、土砂の中から木造の地蔵菩薩が出土したという。地蔵堂の建立は安永5年(1770と解説板の表記にあるが1776の誤りか)。
現在の源泉はこの地蔵堂の下にある。
源泉温は約49度。
そこから隣の浴場に引き込み、男女に分湯している。
源泉の水面と、浴場の水面は同じ高さになっているという。
しばらくご主人の話をうかがってから、ようやく浴場に向かった。
浴場入口の手前に洗面器置き場が設けられており、地元の常連さんのものと思しき洗面器が棚を埋め尽くしている。
床のタイルの色は茶褐色に染まり、湯船も石化して盛り上がっていた。成分濃度が高く、泉質が濃いのだ。
男湯はひとつの浴槽が3つに分かれており、一番左側が「寝湯」、真ん中が「ぬるい湯」、右側が「熱い湯」だ。
「ぬるい湯」のこの時の温度は44度。かなり熱く、何度もかけ湯をしてようやく湯船につかることができた。それでも2分が限界といったところ。
常連さんはもう慣れているようで、「今日はぬるめだよ」と教えてくれた。
隣りの「熱い湯」は仕切り板の湯底でつながっており、だいたい2度高いとのこと。
足を入れるだけでピリピリして、猛烈に熱い。
かなり気合を入れたが、肩までつかって10秒が限界だった。
湯船に入っては出て、床に座り込んでひと休み。
常連さんは会話をしながら、これを何度も繰り返す。
長湯するというよりも、自分のルーティンを淡々とこなして入っているという印象が強い。
早朝、仕事前に立ち寄ってから職場に通ったり、帰りがけに立ち寄る人もいる。
毎日決まった時間に決まった人が現れては、挨拶を交わしながら人がどんどん入れ替わっていく。
温泉津は、生活に密着した温泉地なのだ。
昇介さんは私に何度も語っていた。
「温泉津は観光温泉ではない。観光資源ではなく厚生資源なのだ」と。
温泉津は世界遺産になったが、観光地であるずっと以前から、ここは地元の人々にとって生活の場であった。
生まれるずっと前から温泉は同じ場所にあり、ずっとそこで湧き続けている。
19代続いた湯、湯のあり方やたたずまいを、これからも守っていかなければならない。
湯守としての使命を背負いながら、昇介さんは温泉津に生き、温泉津を守り抜いていこうと固く決意しているのがよくわかった。
温泉津温泉へは山陰自動車道・出雲ICから国道9号線経由で南西へ52.5㎞、約1時間。浜田自動車道方面からは、山陰道江津-浜田線に入り江津ICから国道9号線経由で北東へ約20㎞、25分。
< PROFILE >
長津佳祐
ゴルフや温泉、クルーズ、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。山と溪谷社より共著で『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』を上梓。北海道から九州まで自噴泉の湯船を撮り下ろしで取材した、斬新な切り口の温泉本になっている。
長津佳祐
ゴルフや温泉、クルーズ、スローライフを中心に編集・撮影・執筆を手がける。山と溪谷社より共著で『温泉遺産の旅 奇跡の湯 ぶくぶく自噴泉めぐり』を上梓。北海道から九州まで自噴泉の湯船を撮り下ろしで取材した、斬新な切り口の温泉本になっている。