平治の乱で敗れた源義朝が逃亡し、命を落としたのが愛知県知多半島です。境内にある義朝の墓には今日でも訪れた人によって、願いが書かれた小太刀が奉納されています。風光明媚な知多半島に野間大坊を訪ねました。
絵馬に描かれた源義朝
鎌倉様式の大御堂寺本堂
建長2年の梵鐘が残る
源義朝(みなもとのよしとも)――平安時代末期の河内源氏の武将です。
河内源氏の内紛によって都で勢いを失った義朝は、現在の静岡や関東方面へ出向き、現地の豪族を組織して再び勢力を整えて都に戻ってきました。
義朝は武士団を率いて「保元の乱(ほうげんのらん・1156年)」で武功をあげます。しかし、その後の「平治の乱(へいじのらん・1160年)」で敗北し、都からの逃走を余儀なくされます。
勢力を再整備すべく関東方面へ向かいますが、落ち武者狩りの執拗な襲撃を受け、家来は命を落とし、親族ともばらばらになってしまいます。
家来や馬を失った義朝が向かったのは、家人・長田忠致(おさだただむね)とその子・景致が暮らす尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町)でした。
しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲われて殺害されてしまいます。享年38歳、1160年のことでした。
その後、源頼朝(みなもとのよりとも・1147~1199年、鎌倉幕府初代征夷大将軍)から、「よき働きをしたら、美濃尾張を任せる」との言葉をもらった長田忠致。懸命に頼朝のために働いたといいます。
しかし、頼朝が平家追討後に覇権を握ると、頼朝の命により殺害されてしまいます。とはいえ処刑の年月、処刑の様子は諸説あって定かではありません。
戦さで討死したという説もあれば、逃走したという説もあります。
ただし、源義朝は源頼朝の実父。父を想う子によって、処刑されたとするのがふさわしいようです。
野間大坊(のまだいぼう)は正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)といい、境内に義朝の墓が残ります。
また、この地で謀殺された義朝のために源頼朝が寄進した念持仏が残ります。
源頼朝の祈願を叶えた野間大坊は、祈願成就と開運の寺として豊臣家や徳川家も庇護しました。
現在は「願いが叶うパワースポット」として知られています。
特徴的な源義朝公の廟
知多半島で四国八十八か所巡りの「お砂踏み」
ご利益が多そうです!
鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が寄進した「建長2年(1250年)」の銘が入った梵鐘のある鐘楼堂。三度におよぶ火災被害に遭ったものの、宝暦4年(1754年)に鎌倉様式に再建された大御堂寺本堂などの建造物が立つ野間大坊。
境内は木立に囲まれていてとても静か。しかし、境内を散策するとさまざまな発見があります。なかには、生々しい名称も…。
「血の池」は長田親子に討たれた義朝の首を洗った池。国家に一大事があれば、池の水が赤く濁ると伝わります。
「源義朝公御廟」は文字通り義朝のお墓です。このお墓には小さな小太刀が幾層にも奉納されています。
「我に小太刀の一本でもあれば、むざむざ討たれなかったものを…」とは、義朝が最期に残した言葉だそうです。
小太刀もなく、抵抗すらできなかった義朝の霊を弔うために、今でも小太刀が奉納されています。
しかし、単なる奉納ではありません。源頼朝の祈願を叶えたパワーのあるお寺であるだけに、供えられた小太刀には「祈願成就」「家内安全」などの、さまざまな文字が書かれていました。
歴史あるパワースポットだけに“自負”もあるのでしょう。
野間大坊までの電柱看板には願いが叶う旨がずいぶん大きくアピールされていました。
弁財尊天の鳥居の前には「良縁と財宝の神 必ず願いが叶います」という立札がありました(笑)。
境内にもうひとつ、「なるほど」と思ったパワースポットがありました。
それは「お砂踏み」と呼ばれる、柵に囲まれた遊歩道状態の場所です。その道の下に、四国八十八か所の砂が埋まっています。
各寺院の名称を見ながらお砂踏みを通れば、四国八十八か所霊場巡りと同等の価値があります。
かつて弘法大師がここを訪れて護摩を焚き、庶民の幸せを祈願したといいます。
野間大坊と四国八十八か所は無縁ではありません。
景色抜群の野間灯台
魚介類もおいしい!
野間大坊は木立に囲まれた知多半島のほぼ中央西側に位置する静かなお寺です。名古屋方面からそこまでの道程は、なかなか快適なドライブになります。
名古屋港を出入りする大型船を見守る野間灯台も見どころのひとつです。灯台の立つ場所からは伊勢湾越しに伊勢方面が眺められます。きっと失意の源義朝も見た風景でしょう。
現在では海の上を大きなコンテナ船が行き、中部国際空港セントレアへ向かう航空機が空に浮かびます。
源義朝の死から800年余り。同じ場所から見る風景は進化しましたが、伊勢湾の美しさと海や陸地に光を注ぐ太陽の眩しさは変わりません。
知多半島を訪れたのなら、海の幸も忘れられません。新鮮な魚介類を提供するお店が豊富ですし、近海で獲れたエビを生かした伝統のお菓子・海老せんべいの販売店も点在しています。
また、知多半島は陶芸文化も根づいています。日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産を行っているのが「日本六古窯(にほんろっこよう)」と呼ばれています。
愛知県の「瀬戸焼」、福井の「越前焼」、滋賀県の「信楽焼」、兵庫県の「丹波立杭焼」、岡山の「備前焼」に加えて、知多半島の「常滑焼(とこなめやき)」が数えられています。
常滑とは妙な名称ですが、「常に陶器に向いたなめらかな土が出る」が語源として伝わると聞けば納得できます。
ちなみに、常滑焼の名物が「招き猫」です。招き猫もまたパワーあふれる存在。野間大坊に参拝した帰り道、常滑の陶磁器店で手に入れてみたらいかがですか?
< PROFILE >
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。