神社やお寺は、都会の真ん中でない限り、その多くが自然や鎮守の杜を背景にしています。そのために仏閣は新緑や深い緑、そして朱色や黄色に染まった秋が似合うのです。滋賀県東近江市にも自然の中にご利益たっぷりのお寺がありました。
1765年に建立された本堂
本堂に続く石段。秋には朱に染まります
京の都と紅葉はよく似合います。朱色や黄色の葉をまとった木々と仏閣が幻想的な世界を作り出します。
京都には多くの有名なお寺や神社があるので、紅葉名所も数多いのですが、全国にも美しい森に包まれたお寺や神社が数多く存在します。
その一つが滋賀県東近江市の永源寺でしょう。東近江市は琵琶湖東側に位置します。永源寺は琵琶湖を離れ、三重県との県境に近い山の中にあります。
私が訪ねたのは8月の平日でした。まだ、永源寺は美しい緑に包まれていました。すぐ横を流れる愛知川は太陽に輝いて光り、境内入り口にある休憩処では、「氷」ののれんが風に吹かれていました。
平日だけあって境内入り口のみやげ店も暇だと思え、すぐ前にある駐車場に店番のおじさんが気さくに案内してくれました。
紅葉の時期だととても入れない場所だそうです。紅葉時期は橋を渡った先の国道沿いに設けられた駐車場にクルマを止めなければいけません。
そういえば、永源寺のすぐ手前の愛知川の風景が美しく、カメラを構えるためにクルマを路肩に止めました。すると、河原の木がワサワサと動いています。
「?」と思って眺めていると、数頭にもおよぶサルの群れでした。東近江市の中心部から10kmほど走っただけなのに、想像以上に自然の中に入り込んだようです。
本堂まではクルマを止めた場所から小さな橋を渡り、石段を登っていきます。総門まではほとんどが上り坂で、途中には十六羅漢などがあります。
石段の右側は愛知川、左は森。カエデも多く見られます。秋になったらどんなに美しいのでしょう。
新緑の春、深い緑の夏。紅葉の秋。白い装いとなる冬。ここには美しい自然があります。
四季を通じてさまざまな風景があります。強烈な太陽の光を通して緑色に輝く木々の葉を眺めながら、四季の永源寺を想像したのでした。
石段の途中にある十六羅漢
総門までは上り坂が続く
緑に包まれたみごとな山門
井伊氏は藤原北家の末裔であり、井伊直盛は今川氏側として桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討ち死にしています。
また、その戦いの後で謀反を起こしたとして井伊直親は今川氏真に討たれています。
どちらかというと不遇の井伊氏でしたが、直親の子である直政は徳川家康を頼り、関ヶ原の合戦で武功をたてて一躍18万石の城持ちになります。
合戦でのケガが原因で生涯を閉じた直政ではありますが、その遺志は家老に継がれ、前回のコラムでもご紹介した彦根城藩主に井伊氏はなるのです。
井伊氏のなかでも直政から13代目に当たる直弼(なおすけ)は、教科書などでもっとも目にする名ではないでしょうか。
幕末、大老に就任すると朝廷の回答を待たずに日米修好通商条約に調印します。この行為に激怒した朝廷は、水戸藩を通じて攘夷の密命を下します。これに対抗すべく、直弼は尊王攘夷派や一橋派への弾圧を開始します。
徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、一橋慶喜は蟄居、謹慎の処分となります。さらに、吉田松陰、橋本左内などの志士たちが捕らえられ、結果的に獄門、切腹などを命じています。
これだけのことをすれば、敵は多くなります。安政7年(1860年)、大政奉還の7年前の年の雪降る日、直弼は桜田門の外で暗殺されます。
幕末の準主役といえる井伊氏と、永源寺には深い関係がありました。
重要文化財になっている山門は、楼上に菩薩などを奉安する立派な建造物であり、建築に7年を費やしています。1802年に完成したのですが、建立のために援助したのは井伊氏でした。
同様に、開山に尽力した寂室禅師を祀る開山堂もまた、彦根城主井伊直惟(なおのぶ、直政から6代目)より能舞台の寄進を受けて再建されたものです。
そして、「方丈」と呼ばれる本堂、これもまた井伊氏の力によるところが大きいのです。
山門の柱には力強さがあります
石段の入り口にあった休憩処
参拝の後はおみやげ店で名物のこんにゃくを!
石段を登ってきた山門は、すでに愛知川を見下ろす高台にあります。
ここから本堂や、その奥にある禅堂、開山堂などは高台の平坦な部分に建っています。
なんといっても目を引くのは「方丈」と呼ばれる本堂です。
1361年に建立されましたが、度重なる戦さや火災によって焼失してしまいました。
再建に援助したのも井伊氏です。1765年にみごとに再建され、今でも堂々とした姿を見せています。
全国的にも珍しいのは“屋根”です。茅葺きや藁葺きではなく葦(よし)葺き。
葦という植物をご存じでしょうか。
葦はイネ科に属する多年草です。河川や湖、沼の湿地に群落を作る背の高い植物です。
永源寺から琵琶湖までは10数km。琵琶湖東側の湿地地帯も遠くありません。当然、そこには葦が群生していました。
つまり、みごとな葦葺きの屋根は琵琶湖に近いからこそできたとも言えるのです。
さて、永源寺を開山した寂室禅師は37歳の時に中国への留学から帰国しています。帰国中に大嵐に遭い、船上の人々は命を落とす覚悟をしました。そのときに観世音菩薩が白衣で現れ、ほどなく嵐は弱まって一行は帰国できたといいます。
禅師が永源寺に住んだ後、毎夜東の峰に光明があり、そこを訪ねると小さな観世音菩薩像がありました。
それはかつて嵐の時に救ってくれた菩薩様に違いない。禅師は中国から仏師を招き、中国の土で観音像を作り、その額の中に小さな菩薩像を納め、それがご本尊となっています。
以降、子宝に恵まれなかった近江守護職が観音像に毎夜祈りを捧げたところ、世継ぎができたこともあり、「世継観世音」と呼ばれて今に至っています。
子宝の観音様として、美しい景観とともに愛されているお寺なのです。
< PROFILE >
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。
遠藤 里佳子
旅行雑誌ライター。国内外の旅を多く取材。全都道府県を制覇(通過ではなく宿泊をしてカウント)したのは32歳のとき。ハワイやカナダ、オーストラリア、東南アジア、中国など太平洋圏に詳しい。